喜志哲雄『ミュージカル映画が《最高》であった頃』若島正による解説全文公開!
好評発売中、喜志哲雄『ミュージカル映画が《最高》であった頃』の若島正さんによる解説「喜志哲雄の体験的ミュージカル映画論」を全文公開いたします。喜志哲雄によるミュージカル論の特徴とは? ジュディ・ガーランド伝説の1961年カーネギーホール・コンサートを体験していた喜志哲雄とは一体何者なのか?
解説 喜志哲雄の体験的ミュージカル映画論
若島 正
本書は、著者である喜志哲雄が二〇〇六年に晶文社から出した『ミュージカルが《最高》であった頃』の姉妹篇である。この二冊によって、舞台と映画、ブロードウェイとハリウッドが揃うことで、著者のミュージカル論は完結する。その意味でも、本書は刊行が長く待ち望まれていたものである。
この二冊は、どちらも、著者の確固としたミュージカル観に貫かれている。まず、『ミュージカルが《最高》であった頃』と『ミュージカル映画が《最高》であった頃』という、タイトルに注目していただきたい。ここで《最高》という言葉が使われているのは、著者の説明によれば、ミュージカル『エニシング・ゴーズ』で歌われる、コール・ポーター作詞作曲の「君は最高」を踏まえている。「君は最高!/君はコロセウム/君は最高!/君はルーヴル美術館/……/君はシェイクスピアのソネット/……/君はフレッド・アステアの軽快な足さばき/……/僕が最低なら君は最高!」というコール・ポーターの言葉遊びを意識したもので、それは「あらゆる演劇の例に洩れず、ミュージカルは基本的には言語藝術なのである」という著者の根本的な演劇観の現れにもなっている。
本書は、ありとあらゆるミュージカル映画を網羅して、それを総花的に解説した事典のような書物では決してない。むしろ、著者のミュージカル観によって選別された作品が詳細にわたって論じられる──とりわけ、歌の詞と曲を尊重することがミュージカルの文学性の根本にあるという著者の信念によって、歌詞の一言一句までもくわしい分析の対象になる(いささか余談になるが、『マイ・フェア・レディ』で最も有名な曲「踊り明かそう」をカラオケで歌うときには、その原題「アイ・クッド・ハヴ・ダンスト・オール・ナイト」とは文法的にどういう意味になるかを講釈としてさしはさむのが、著者の癖だった)。著者の喜劇論である『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』(集英社新書)から引用すると、「私は劇が扱っている社会だの、劇に盛りこまれている思想だのといったものについて論じたことがほとんどない。その代わり、劇の言葉遣いだの人物の描き方だの筋の組み立て方だのに無性に興味がある」というのが、著者の一貫した態度なのだ。
そうしたミュージカル観に基づいた本書の中核を成すのは、章題を見ればわかるように、フレッド・アステア、ジュディ・ガーランド、そしてジーン・ケリーの三人であり、それをさらにしぼればアステアとケリーになり、そのどちらを取るかとなるとアステアになる。アステアとケリーの比較論では、両者の空間の捉え方の根本的な違いに焦点を当てて、アステアが「限定的な空間」を好んだのに対して、ケリーは「無限定の自由な空間」で踊ることを好んだと論じる。また、両者の外界との関係の捉え方が対照的だとして、「アステアは外界を受け入れ、それに溶け込もうとする」のに比べると、「ケリーは外界に対して攻撃的になる」という指摘にはなるほどと唸らされる。そしてアステアだけに話を限れば、「正統としてのアステア」と「異端としてのアステア」というアステアの二つの顔を論じた第三章と第六章が、本書の白眉と言ってさしつかえない。なぜアステアが正統から異端へという移行を成し遂げることができたのか。それは、著者の言葉を借りれば、アステアがもともと持っていた、「ミュージカル・ナンバーそのものを対象化、意識化する傾向」にある。そのために、アステアは大衆が抱いていた、「シルクハットと白いネクタイと燕尾服」というイメージから抜け出すことができた。「彼は正装することによって他者になり切れた」という衣装に関する指摘もまた、演劇研究者としての著者らしい慧眼である。
著者のミュージカル論を支えているのは、豊富な資料の収集と、圧倒的な演劇体験、そして映画体験である。精緻な分析は、ただ単に優れた知性(それは著者がミュージカルの制作者に要求するものであるだけでなく、その観客にも要求するものである)の産物ではなく、ミュージカルを観る喜びを肉体的に知っているという強みから来ている。本書の中で最も力が入っている作品論が『雨に唄えば』を論じたものなのは、そもそも高校生のときに初めて観たミュージカル映画が『雨に唄えば』だったからだろう。著者は『ミュージカルが《最高》であった頃』でこう書いていた。「とにかく私は唖然とした。世の中にこんなに面白いものがあってもいいのだろうかと思った」。著者にとって、『雨に唄えば』は出発点であり、しかもミュージカルというものを規定する基準にもなった。『雨に唄えば』が「現実を徹底的に相対化した」作品であり、「映画というものの本質的な虚構性をあからさまに示している」という著者の議論は、そのまま「ミュージカルは──いや、ミュージカルに限らず、あらゆる劇や映画は──現実そのものではなくて現実のイメージなのだ。それは不可避的に何ほどかの嘘を含んでいる」という演劇および映画全般に通じる見方と通底している。たしかに、『雨に唄えば』のような「高度のメタ映画」を基準にすれば、ほとんどすべてのミュージカル映画は影が薄い。そこから必然的に、著者は一九六〇年以降のミュージカル映画に失望を覚えることになる。それは「もはや別のジャンル」であり、「あまりにも大味な作品が多くて、かつての洗練は影を潜めてしまった」と著者は嘆く。こうした著者のミュージカル観に、実感としてうなずく読者はさほど多くはないかもしれない。たとえばわたしも、中学生のとき(つまり一九六〇年代)に初めて観たミュージカル映画が『マイ・フェア・レディ』であり、その後『南太平洋』『ウエスト・サイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』を経て、ようやく大学生のときにアステアや『雨に唄えば』を発見して黄金時代のミュージカル映画に開眼したくちだからである。著者が書くとおり、結局は世代的な環境に関係した個人の映画体験がその人のミュージカル観を決めてしまうのであり、それはよしあしの問題ではない。
ジュディ・ガーランドを論じた第四章は、彼女が出たコンサートの中で最も有名な、一九六一年四月二十三日にカーネギー・ホールで行われたコンサートの記述で始まっている。著者は観客の一人としてそこにいたことがわかる。ガーランドのあの歴史的なカーネギー・ホールでのコンサートを生で聴いた日本人がいたという事実、それは驚くべきことではないか。『ミュージカルが《最高》であった頃』によれば、著者は一九六〇年の九月から翌年の六月まで、コロンビア大学の留学生としてニューヨークで暮らしていた。著者はこう述懐する。「私は、大学の講義のために必要な時間と金を除くほとんどすべての時間と金を劇場通いのために使っていた」。そして著者はその後も毎年のように、休暇になるとロンドンに出かけていって劇場通いを続けた。いや、観劇だけではない。著者は兵庫県立ピッコロ劇団の運営にも深く関わって、演劇指導をはじめ、『間違いの喜劇~現夢也双子戯劇(うつつはゆめふたごのたわむれ)~』、『東男迷都路(あずまおとこまようみやこじ)』(ヴェローナの二人の紳士)『西海渡花香(にしのうみわたるはなのか)』(恋の骨折り損)と題したシェイクスピア喜劇の数々の翻案を行い、さらに二〇二二年には著者が岩波文庫で出した新訳『から騒ぎ』を同劇団で上演した。演劇を研究するだけでなく、演劇の現場を知り尽くしているからこそ、こうした著者の全人格が現れているようなミュージカル論が可能になったのだ。
ここまでで、すでに勘のいい方にはおわかりと思うが、著者はわたしの恩師である。ここからは、あえて喜志先生と呼ばせていただき、先生との個人的なおつきあいについて書くことにする。いわば、著者の実像を裏話として少しなりとも紹介しておきたいのだが、本書をお読みになればおわかりのとおり、喜志先生に言わせればそんな実像よりこの本という虚像のほうがすべてだとおっしゃるかもしれない。喜志先生は関西弁で言えば「ええカッコ」をするのが好きなのだが、それでも実物の喜志先生はお酒が大好きであり、しかも一緒にお酒を飲んでいるとこんなに楽しい人はいなかった(「お酒ほどいいものはないんです。お酒には、ひとつも悪いところがない」というのが先生の口癖だった)。
学生時代に始まり、京大文学部の英米文学科で同僚としてご一緒させていただいた時期まで、ずっと喜志先生にはお酒のご馳走になった。午後六時ごろから飲み始めて、次は喜志先生行きつけのバーで飲み、そのバーの向かい側にはカラオケスナックがあり、ひとしきりカラオケで歌った後、店を出ると午前二時ごろで、その近くには喜志先生のお好きな韓国料理の店があり、そこでまた焼き肉をつまみながらビールを飲み、その店を出てもまだ飽き足らず、明け方までやっているラーメン屋に入り、ラーメンと餃子を注文してビールを飲み、ようやく別れたのが午前六時ということもあった。
喜志先生とは何度カラオケで歌ったかわからないほどだった。もちろん、ミュージカルナンバーも歌ったが、喜志先生がとりわけお好きだったのは、笠置シヅ子の「買い物ブギー」(「おっさんおっさんこれなんぼ」と言う先生の野太い歌声が耳にこびりついている)と、フランク永井の「公園の手品師」だった。ちなみに、喜志先生のお父様であった詩人の喜志邦三は作詞家でもあり、三浦洸一の「踊子」や和田弘とマヒナスターズの「お百度こいさん」といった名曲を作詞している。
思い出は尽きないが、最後にもうひとつだけ。喜志先生がまだ京都大学文学部にお勤めだったころの話である。いつものように行きつけのバーで酒を飲みながらおしゃべりしていたら、喜志先生が「定年退職のときにパーティーをやるとしたら、ジャック・ブキャナンみたいにシルクハット、燕尾服にステッキという恰好をしてね、『アイ・ゲス・アイル・ハヴ・トゥー・チェンジ・マイ・プラン』(「プランを変えなきゃならないようだ」)って歌いながらステップを踏んでみたいなあ。それを後でCD‐ROMに焼いて、参加者に配るんです」とおっしゃっていたことが忘れられない。
残念ながら、この喜志先生の夢は実現しないままに終わってしまったが、その代わりに実現したのが本書だと思えば、救われたような気分になる。『ミュージカルが《最高》であった頃』は「黄金時代の終焉」という章で終わっていた。それに対して、『ミュージカル映画が《最高》であった頃』は「ミュージカル映画の未来」という章で終わる。これはわたしの想像だが、喜志先生の当初の構想では、やはりこちらも「ミュージカル映画の終焉」で終わるはずではなかったか。それが、『ラ・ラ・ランド』という、ミュージカル映画の文学性を尊重した作品を観て、気が変わったのではないか。その計画変更はこの二冊のミュージカル論にとって、幸せなことだったと思う。ミュージカルは、そしてミュージカル映画は、なんらかのハッピー・エンドで終わってほしいと思うからだ。
本書の結末を読んでいると、わたしには『バンド・ワゴン』のジャック・ブキャナンに扮した喜志先生が、フレッド・アステアのような軽快さはないにしても、少し気取ってステップを踏んでいる姿が目に浮かぶ。こう口ずさみながら──
アイ・ゲス・アイル・ハヴ・トゥー・チェンジ・マイ・プラン……
若島 正(わかしま ただし)
1952年京都市生まれ。英米文学者・翻訳家・詰将棋作家。京都大学名誉教授。日本ナボコフ協会運営委員。チェス・プロブレム専門誌「Problem Paradise」編集長。著書に『乱視読者の英米短篇講義』(研究社)、『乱視読者の帰還』(みすず書房)、『乱視読者のSF講義』(国書刊行会)、『盤上のパラダイス』(河出文庫)、『詰将棋の誕生 『詰むや詰まざるや』を読み解く』(平凡社)など。訳書にウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』(新潮社)『ローラのオリジナル』『記憶よ、語れ 自伝再訪』(共に作品社)、ギリェルモ・カブレラ=インファンテ『煙に巻かれて』(青土社)、編訳書にシオドア・スタージョン『海を失った男』(晶文社)、チェス小説アンソロジー『モーフィー時計の午前零時』、サミュエル・R・ディレイニー他『ベータ2のバラッド』、トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』(共に国書刊行会)などがある。
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『ミュージカル映画が《最高》であった頃』
喜志哲雄 著
四六判・320頁 ISBN978-4-336-07482-9
定価3,300円 (本体価格3,000円)