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マーク・トウェイン『ジム・スマイリーの跳び蛙――マーク・トウェイン傑作選』(柴田元幸 選・訳)感想・考察・論点
マーク・トウェイン『ジム・スマイリーの跳び蛙――マーク・トウェイン傑作選』(柴田元幸 選・訳、新潮文庫)
だいぶ前に読み終わったのだが、各作品メモを取っていなかったために記事にするのが遅くなった。
本書は短編集であるため、作品ごとの感想・考察、そして結論までは至らないものの考えられる論点を述べていく。
「石化人間」
これは小説というか手記である。サムの名で寄稿したそうだ。よってここから何かを見出そうなどという試みは特にしない。本作は石化した男性の発見譚。発見された姿はとてもふざけていて、明らかに悪ふざけの記事である。当時何も知らない人たちが読んだら、これを信じたのだろうか。
「風邪を治すには」
筆者がいろんな人から風邪の治し方を教わり、試すが、まったく効果がない。という記録。そしてその記録を「この上ない善意とともに」同じように肺炎を患っている人に宛てている。こういう方法は間違っているよ、ということである。よく考えれば、いや、よく考えなくてもそんな方法で治るわけないことはわかる。
「スミス対ジョーンズ事件の証拠」
〈スミス対ジョーンズ事件〉の裁判記録をトウェインが綴った、という形式である。証人が極めて真面目に証言しないというのが本作の一番の性質である。トウェインのユーモアが滲み出ているとも言えよう。
「ジム・スマイリーの跳び蛙」
本書の表題作。トウェインの名を世に知らしめたのはこの作品。戦いを仕掛けた側が負けるのは典型的だが、ジムの蛙は相手の不正によって負けた。蛙は相手によって石を飲まされていたのだが、彼はこのような勝ち方でよかったのだろうか。
「ワシントン将軍の黒人従者――伝記的素描」
「ワシントンに仕えたと言われる黒人が死んだ」という内容の記事が約半世紀にわたって複数回記載されている、という話。結局この人ジョージがいつ死んだのか、業績は何なのか、明確なことはほぼないのである(どの記事においても95歳で死んだことにはなっている)。情報に踊らされる民衆、という点においては『ハック』の詐欺師事件(本当の遺族は?)や本傑作選に収録され後に言及する「盗まれた白い象」に通じるところがある。
「私の農業新聞作り」
農業新聞など書いたことのない、農業に触れたことすらない語り手が農業新聞の編集長を務める話。編集長は中身を書かないと思っていたが、そうではなかったらしく出鱈目な記事を連発してしまう。当然のごとく炎上してしまったため、発行部数を上げるという目標は達成したものの新聞としての信用は失墜してしまった。本末転倒甚だしい。
「経済学」
経済のことを考えている最中に避雷針屋が来て、適当に対応した結果不経済なことになってしまった、という話。
「本当の話――一語一句聞いたとおり」
トウェイン自身が親戚の元奴隷から聞いた話が元になった、黒人社会についての伝聞的作品である。黒人女性レイチェルがいかに「辛い目に遭った」か、本人の口から語られることになる。『ハック』においては、南部社会の詳細な記述を避けるためにさらなる南下を避けたが、これは伝聞ということで詳しい記述がなされている。
「盗まれた白い象」
「ワシントン将軍の…」と同じく、情報に踊らされる民衆が描かれている。白い象の存在意義(役割)を考えてみるとよい。
「失敗に終わった行軍の個人史」
「戦争の記録」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは軍人による殺害や軍人としての感情、民間人としての感情を綴ったものである。それは先の大戦を学ぶうえで我々現代日本人が触れてきたものである。この作品もたしかに「戦争の記録」である。しかし、ここに挙げたようなことは書かれていない。トウェインの経験をもとにしたものであるが、いかに統率のとれていない、意欲のない、そして戦争のことをわかっていない(不教育も含めて)隊であるか。そしてそのような隊がざらにあったということであるから、そりゃあ戦争は上層部が思うようにはいかない。太平洋戦争における大日本帝国軍がどうだったかは知らない。しかし、ロシア連邦によるウクライナ侵略において、露軍の統率がとれていなかったり、この作品に書かれているようなことが起きているというようなことはしばしば報道されている。彼らにとって、この作品は一つの「希望」になりえるかもしれない。
「フェニモア・クーパーの文学的犯罪」
トウェインによるフェニモア・クーパー評。クーパーの作品を例に挙げ、彼の作品がいかに「脱法的」であるかを述べている。いささか言いがかり的であるが、そこが面白いところである。
「物語の語り方」
物語には種類があり(ユーモラスな米、コミックな英、ウィッティな仏)、それぞれがどのように語られるべきかを述べている。終盤、「金の腕」という作品を用い、この作品の語られ方を提示している。まるで演劇の台本のようである。この作品には、トウェインの米文学優位思想がにじみ出ている(米文学がもっとも語るのに難しい、という意の記述より)。
「夢の恋人」
何十年もの間夢に転々と出てくる少女(15歳)について、語り手(夢の中ではいつも17歳)が書き留める形の作品。夢に出てくるとき毎回2人の名前は異なるが、そのようである(ずっとそのようであった)ように夢が進んでいく。また、夢の中でしか通用しない語も登場するが、これもその語が存在しているかのように感じられ、扱われる。一言で言い表すと、不思議な作品である。夢の中で衝撃的な死に方をした少女がまた出てくる。どんな感覚なのだろうか。そんな夢は見たことないからわからない。見たくもない。