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KokugoNote #23高1国語総合


続き。

○いのちなき砂のかなしさよ/さらさらと/握れば指のあひだより落つ
石川啄木(1886-1913) 岩手県生まれ

  作者が視線を注いでいるのは、呼びかけを示す「よ」の上、「砂」ですね。その後を追ってみると、「さらさらと」流れていく様子が伝えられています。どこからか?「握れば指のあひだより」ですね。海の白砂を手で掬(すく)ってみた経験はあると思います。なければ修学旅行で沖縄に行ったときに、奇麗なビーチで掬ってみてください。砂時計のように「さらさらと」落ちる様子を見て、キレイだなあと感じるのではないでしょうか?
 
 けれども、いったいなぜ、砂を掴むのでしょう?冒頭の句を見ると判りますが、私たちのように「きれいな砂浜だなあ」という感慨を抱いているのではなさそうです。「いのちなき」という無情感や「かなしさ」という表現がそこで示されています。どういうことでしょう?

 ひとつずつ整理していこうと思います。もし「いのちなき砂」ではなく「いのちある動物」だったとしたら?現代でもドッグセラビーなどがあるように、自分の気持ちに反応してくれる存在であれば心を癒してくれたのかしれません。
他にも「砂を掴む」という行為は「溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」という表現があるように、何かを掴んで助かりたいという気持ちがあったのかもしれません。
いずれにせよ、自分の気持ちを解ってくれない砂は、自分を助けてくれるものではなく、すぐに消えてなくなってしまうもので、後に残された〈私〉の孤独感や空しさを際立たせる表現だと、先生は解釈しました。皆さんはどうでしょうか?

 啄木は、父の不祥事によって破綻した一家の生活を支えるため、尋常中学校(現在の高校に当たる)を中退して、小学校の教員になり、貧困と病苦の中で、自然主義的な作品を表現するようになった。歌集『一握の砂』を発表し、注目を浴び始めた頃、肺結核のために亡くなってしまう。

 東北の哀しさについて授業でも説明しましたが、例えば、奥田英朗さんの『オリンピックの身代金』 (角川書店、2008年)を読んでみると、東北の人たちがどのような状況下にあったのか理解しやすくなると思います。
他にも、少し難しいかとは思いますが、赤坂憲雄『東北学 忘れられた東北』(講談社学術文庫、2009年)を読んでみるのも良いですね。

キーワード:『一握の砂』・『悲しき玩具(がんぐ)』・貧困と病苦・『時代閉塞の現状』https://bit.ly/39flDo1

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