出雲大社と国学、垂加神道の関係性を知ることは当時の人々の感覚を扱うことである出雲大社と神道を見つめて -後編-
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國學院大學メディアの公式サイトから、note担当者がおすすめ記事を転載!
今回は、西岡和彦教授(神道文化学部)が、出雲大社と神道について、自身の研究動機を含めて語ったインタビュー記事・後編をお届けします。
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出雲大社においては、国学の受容以降も、垂加神道の思想(神学)や祈禱を保持し、現在に至るまでは「共生」してきた――ということを、インタビュー前編の最後で述べました。国学は外来文化から距離をとるものですが、外来思想にほかならぬ儒学(朱子学)とともに中世以来の祈禱を取り入れた垂加神道もまた、出雲大社のなかで確固たる地位を保持していました。
なぜかといえば、神事にまつわる技術を国学は扱わないために、その国学だけを思想的背景としてしまっては、神社にとって大切な祈禱が行えない。そこで、それをも扱える垂加神道が、なおも必要とされた……というところまで語ってきました。ではそもそも、なぜ近世以降も、神道において祈禱が重視されたのでしょうか。
考えてみますと、現代でも占いなどは人気がありますし、私たちは目に見えないものの力にすがる機会が、往々にしてありますよね。病気を治したいとか、家族の安全を願うというようなとき、人々は神社や寺院などを訪れます。
一方、神社や寺院などは、そうしてすがってくる人々に応えなければなりません。その際に行われるのが祈禱なのです。そして、近世から現在に至る出雲大社においても、人々のそうした思いに応えるひとつとして、垂加神道の祈禱があったわけです。
すこし時計の針を巻き戻して考えてみると、中世以降、出雲大社は他の神社と同様、神仏習合色の強い神社だった。それが近世前期、一気に神仏分離が進んだのでした。しかし、従来は神仏習合のもと社僧に託していた祈禱が、社僧がいなくなると自前では行えなくなってしまった。その間に細かな推移はさまざまあるのですが、概していえば、その“空白”にフィットしたのが垂加神道だったのです。なお、垂加神道は出雲大社が公的に受容したもので、国学はあくまで私的に受容されたものであったことに注意してほしいと思います。出雲大社は垂加神道と国学とが「共生」してきたのは事実ですが、幕末期までは垂加神道が第一線にあって、出雲大社の祈禱を支えてきたのです。
儒学(朱子学)と神道が合流した垂加神道、一方で外来の文化から距離をとって物事を考えようとした国学。それぞれの見方というものは、改めて非常に面白いものがあります。
まず垂加神道のことを考えてみれば、そもそもなぜ儒学という外来思想が神道に導入されるかといえば、見えない神を理解するためである、という側面があると思います。姿が見えない、声も聞こえない神という存在を理解しようとするとき、外来の考え方がヒントになる。それは、わからないものを理解しようとするときの、ひとつの真摯な態度でもあります。
すこし、別の角度から見てみましょう。垂加神道を打ち立てた山崎闇斎の、一方での学問としての教えを受け継ぎ、広めていった人たちを崎門学派といいます。彼らは非常に真面目な人たちでした。
近年、本学文学部中国文学科教授の石本道明先生からのお誘いをきっかけに多くの先生方と研究を進め、その研究成果を『江戸期『論語』訓蒙書の基礎的研究』という書籍にまとめました。読んで字のごとく、江戸期に『論語』を読みくだし、多くの人に理解できるようにした「訓蒙書」を研究したものなのですが、いわばこれは、今でいうオンライン授業のようなものなのですね。
江戸期において、都市圏に住んでいて、直接、師の教えを受けることができる人々は結構なことですが、そうした環境に恵まれない人のなかにも、当時広がりつつあった儒学を理解し、さらに優れた師に付きたいと求める人が大勢いました。そうした人たちのために、優れた師の講義の言葉を正確に書き写すことで、たとえ遠隔の人でもそれを読むことで、自宅に居ながらにして受講できるようにする。口癖もそのままに採録されたテキストを読めば、まるで師が目の前で講義してくれているような感覚が抱けるまでの講義録として「訓蒙書」を作成したのです。
こうした師の教えを正確に記録し広めようとした営み。あるいは残された訓蒙書の綺麗な保存状態。これらをつぶさに見ていますと、当時の日本人の学問に対する姿勢が非常に真面目であって、真摯な姿が浮かんでくるのです。
話をもう一度国学へ戻します。国学はとても合理的な学問です。たとえば本居宣長は、現在を生きる自分たちは、神々や自然に感応できた古代の人々のような、曇りなき感性を失ってしまったと考えます。だからこそ、余計なもの、すなわち「からごころ」を取り除いた感性、真心を取り戻さなければならない。仏教や儒学のような外来文化をすべて清く取っ払って、本来の感性を磨け、という方向にいくんですね。そうして取り戻した純粋な感性を神道に転ずれば、見えない神のことさえまともに考えることができるようになる、という発想になるわけです。非常にわかりやすく、合理的な考えです。
しかし宣長は逆に、合理的でないものが理解できない。いや、理解できないのではなく、おそらくそういったポーズをあえてとったのであろうか、と思われるところがあります。千家俊信という人物と宣長との間でかわされた書簡が、そのいい例です。千家俊信は、出雲大社の宮司=「出雲国造」を兄にもつ国学者であり歌人なのですが、あるとき自分の手のひらに「玉」の字が浮き出たといって喜び、宣長に報告するのです。しかし宣長は、そのようなことは誰にもいわないでおけ、と返します(寛永九年三月十一日、千家俊信宛書簡)。それは合理的な考えの外にあるものを、あえて答えようとしなかったのか、それとも理解しようとする術をもたなかったのかは不明ですが、宗教家らにとっては不満の残るところでした。
学問としての国学は、非常に合理的で、優れています。だからこそ感知しえない部分は、あえて答えることを避けたのでしょう。国学受容以降の出雲大社においては、どうしてもその空白を埋めなければ宗教活動が出来ない。朝廷や幕府からの御祈禱依頼に、国学では答えることが出来ない。そこに国学の限界があったのであり、その空白を垂加神道が補ってきたわけであります。
もちろん、出雲大社と国学、あるいは垂加神道との関係性は、そのすべての記録が残っているわけではなく、研究していく難しさはあります。だからこそインタビュー前編でお話しした、師の森田康之助先生から教えていただいたような歴史の見方――客観性という現代人の先入観ではなく、当時の人々の感覚を大切に扱っていく研究を、今後も進めていきたいと思っているのです。