出雲大社のことが理解できれば、神道がわかると西岡教授が説くわけ出雲大社と神道を見つめて -前編―
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國學院大學メディアの公式サイトから、note担当者がおすすめ記事を転載!
今回は、西岡和彦教授(神道文化学部)が、出雲大社と神道について、自身の研究動機を含めて語ったインタビュー記事・前編をお届けします。
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出雲大社と聞くと、因幡の白兎といった出雲神話のイメージもあって、「神代・古代から何の変化もなく、現代に至っている」という印象を抱く方が多いのではないでしょうか。まるで冷凍保存されてきたようなイメージとでも申しましょうか。たしかに、出雲大社が非常に古く、長い歴史をもつことの重要性は揺るぎませんし、研究の分野においても古代が扱われることがほとんどです。
ただ実際は、現在に至るまで歴史の荒波に揉まれながら、多くの変化を遂げてきていることもまた事実です。朝廷や幕府、近代に入れば明治政府と、それぞれの“時代の主役”と出雲大社との関係性は、絶えず変動してきました。これは、出雲大社が時の中央政権にその都度アプローチして、自らの立ち位置を安定させようとしてきた、という側面があるためです。追ってお話しするように、私が関心のある江戸期は特に変革期であり、この変化が大きかった。
もちろん建築物としても、古代のままではありません。今ある出雲大社の御本殿や境内も、江戸期に“理想の古代”を具現すべく建て替えられたものです。
つまり古の世から現代まで、変わるものと、変わらないものがあるわけですね。出雲大社の歴史を知れば、神道の歴史がそのままわかる、と私は思っています。
このような出雲大社の魅力に気づいたのは、20歳頃のことです。その頃の私は、神職を目指すべく、出雲大社の神職養成所「大社國學館」で学んでおりました。24時間、出雲大社のなかにいるなかで、段々と出雲大社が生活の一部になっていく。すると、歴史の教科書には書かれていないような神社の歴史が、徐々に体感されてくるのです。
特に、「出雲国造」という神職の家系が代々引き継がれ、ずっと続いてきているということを目の当たりにして、強い印象を受けました。先ほど申しましたように、神社は建て替えなどの新陳代謝を経ていくものなのですが、同時に長い間、変わらないものがある。土地だけではなく人が残っているわけで、もはや出雲国造の家系自体が、神話的な存在だといっていいかもしれません。これは一体、どういうことなのだろう――。出雲大社をめぐる不思議さに、興味を抱くようになりました。
その頃に偶然、研究の道へと進んでいく、さらには國學院大學へと縁がつながっていくきっかけとなる出来事がありました。大社國學館には毎年、國學院大學の先生方が集中講義でお越しになっていた。そのうちのおひとり、森田康之助教授がいらしたとき、私は当時疑問を抱いていた「承久の乱」について質問したんですね。
今年(2022年)のNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも話題になりましたが、承久の乱といいますのは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権・北条義時に対して挙兵し敗れたという、教科書的な常識ともなっている出来事です。たいていは、倒幕を計画した後鳥羽上皇の無謀さが語られる。私も不思議に思って、森田先生にお尋ねしたのです。なぜ後鳥羽上皇は、あんな無謀な戦いに身を投じたのでしょうか、と。
すると先生は、それは貴方、「今」の見方でしょう、とおっしゃったのでした。無謀だというけれども、そもそも当時の社会は、天皇に対して武士が歯向かってくるという発想自体がなかったのですよ、と。
このお答えは、非常にショッキングでした。歴史の見方を180度変えられると共に、現代の見方で歴史を考えると、誤りがあるということを教えてくださるご発言だったのですね。当時の概念や考え方、習慣や慣習をきちんとおさえたうえでなければ、話にならないのだと。
客観的に物事を見るということは、もちろん研究において重要なことです。ただその「客観」というのは、私たちが生きている現代の「主観」でもあるかもしれない、ということに自覚的であらねばならないわけですね。森田先生が教えてくださったのは、そうした「客観的な主観」は歴史の見方ではない、ということなのでした。感動した私は、森田先生を慕い、國學院大學で学ぶことにしたのです。
私が現在、出雲大社と共に研究の中心に置いているテーマは、「垂加神道」です。垂加神道とは、江戸時代初期に山崎闇斎が提唱した、儒学(朱子学)の見地を取り入れた神道思想のこと。そして私が垂加神道のことを考えるようになった所以もまた、出雲大社と密接な関係にあります。
前提として、現在に至る近代神道というものは、山崎闇斎の後、本居宣長らを中心に成立していった「国学」の強い影響下にあります。近代神道は、国学を前提としている。これは紛れもない事実であり、出雲大社も同様です。研究の世界で江戸期の神道を論じるにしても、前・中期をリードした垂加神道はやがて消滅し、本居宣長の国学がすべてを塗り替えたかのように語られることがほとんどです。
しかし出雲大社にかんしていえば、江戸期から今まで残っている思想的な潮流は、国学だけではないんですね。国学というのは祭祀、そしてその技術、特に祈禱を扱わない学問であります。ところが、出雲大社では江戸時代の祈禱を現在も出雲国造館で行っています。その祈禱が垂加神道なのです。
こうした研究を行うことは、国学や近代以降の神道学ではある種の「タブー」とでもいうような側面を持ちます。なぜならば、江戸期に発展した国学は客観的かつ文献至上主義的な志向をもつものであり、その強い影響下にある近代神道の合理主義と垂加神道とでは、当然折り合いが悪いわけなのです。
しかし実際に、出雲大社においては国学受容以降も、垂加神道との「共生」が続いてきた――その「共生」について語ることから、インタビュー後編に入っていきたいと思います。