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沈黙した状態で注意を払う = 観察

観察といいながらコントロール/解釈/決定/抑圧してしまっている(または、してしまっているかもしれない)という思いは瞑想を始めた当時からありました。

観察ってどうやるのが正解なんだ?という思いですね。

たとえば、さっき3歳の娘が大きい声で歌いながら私の周りを駆けずり回っていたんですが、まぁ反射として「うるさいなぁ」と思うわけです。

で、これを「うるさいと思っている」とか「音、音...」とかいうように、観察者的な視点に置き換えて冷静に観るということはパターン的にできるわけです。

ただこれって、「置き換え」の時点でなにかしら時間的経過が見て取れるし、やっぱりそこには解釈、分解という名の操作、あるいは軽い抑圧が行われていると思うようになりました。
それとさっき「パターン」と書きましたが、ここにも思考の臭いを感じますね。結局自我の目新しい側面を掘り起こしているだけなんじゃないかと。

それで色々、本を読んで調べていたら、ケン・ウィルバーやJ・クリシュナムルティのような人達が「時間 = 自我」であると言っているんですね。
つまり時間的経過を含意する思考(言語にしても観念(アイデア)にしても)が認識をエコーしている限り、それは自我を増強したり延命したりしている、ということになります、理屈の上では。

「観察ってなんだ?」という問いに戻るんですが、思考じゃないレベル、思考を越えたレベルの観察まで持っていかないと、瞑想とは名ばかりのお遊びだと思うんですね。
少し余談ですが、リラックス目的で瞑想なんかしないほうがいいです。リラックスしたいなら温泉でも行ったほうがずっと効果的です。

そういう想いでまた読書を進めていると、吉福伸逸さんが「じっと見る」という言い方をされていてぴんときました。
そっか、最後まで見届ければ良いのだと。

とにかく見る。

手を加えない。

見届ける。

クリシュナムルティ氏も「注意を払う」という表現を使ってます。「集中するのではなく」とも付け加えてましたね。

注意は集中ではありません。集中は制約されていて、狭くて、限りがありますが、注意には限りがありません。
引用元: 「真の瞑想」 ー J・クリシュナムルティ p.31

だから瞑想のプロセスとしては「沈黙 & 注意」だと思ったんです。
これが観察の中身だと。

沈黙しなければどうしても思考が働いて、優勢になって、手を加えずには居られない。それが人間の性です。

だからまず沈黙しなければいけなかたんですね(自分の場合は)。
私の場合、瞑想との出会いは、テーラワーダのヴィパッサナー瞑想(ラベリング瞑想)です。これは、スマナサーラ長老曰く「ラベリングによって、普段の思考が入り込む隙をなくす」という手法を提案しています。
結局それもラベリングがピークに逹すると沈黙の状態にガクんと落ち込むんだと思います(← 自分はここまで行けなかったので、憶測です)。

私のケースでは、沈黙し、注意を払うという理解が非常に助けになりました。
瞑想が一段と進みました。

「沈黙」に行きつくとどうしても思い起こされるのはウィトゲンシュタインですね。

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。
引用元: 「論理哲学論考」 ー L・ウィトゲンシュタイン

言えることがなくなったら沈黙しろ、と。

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