Facebookの追悼アカウント指定から考えたこと
Facebook にアカウントを持って多分10年以上は経つと思います。もっとかな。
Facebook のアカウント情報を久しぶりにいじっていたら、追悼アカウント(自分の死後にアカウントの管理権を譲渡する他者アカウント)を指定できる項目を見つけました。
なんとなく気になって、「まぁ、いつやっといてもいいか」と思い、その場で奥さんのアカウントに指定させてもらいました。
指定するとメッセージが送れます。
Facebook 的には「今すぐお知らせしなくてもいいよ」的な内容が書いてあった気がしたんですけど、こんなもん今やらなかったら忘れるに決まっているので、テンプレメッセージのまま奥さんに送っておきました。(さすがに「こういうの送ったよ」と口頭でも伝えましたが。)
決済可能だったりビジネス用途も兼ねているアカウントは、Facebook に限った話ではなく、こういう生きてる間の対処が必要だな、と思いました。(と言って、他のアカウントで「あーやんなきゃな」となってるのがありますが…)
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自分がいつ死ぬかはわかりません。
でも死ぬのは確実ですよね、人間の死亡率は 100% ですから。
いつ死ぬのか、知りたい人と知りたくない人がいると思いますが、一般的な感覚で言うと、僕は知りたくない派ですね。
単純に知ってたら面白くない(未来が未知であるワクワク感が減る)というのが大きいです。
世間話程度の感覚ではこんなふうに思っています。
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せっかく note を書くのでもう少し掘り下げましょう。
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いつ死ぬのかをちょっと真面目に話題にする場合、いくつかその前に片付けておかなければならない問題があります。
誰が(何が)死ぬのか
そいつはなにをもって「生きている」と言えるのか
いつ死ぬのかをどのように推測するのか、推測はそもそも可能なのか
「死ぬ」とはどういうことなのか
考える順番はどうでもいいのですが、こういった厄介な疑問に対して
こじつけでもいいから
自分という一個人にとって意味のある
なんらかの仮定を持って「いつ死ぬのか」という問題に挑まないといけません。
なんで「いけません」なんていう言い方をしたかというと、曖昧なスタンスでこの問いを問うくらいなら問わないほうがずっとマシな部類の問いだと思うからです。
もし問う人が、「死にたくない」などの強い欲求、または、「なるべく長生きしたい」などのふわっとした願望をベースに持っていて、そのバイアスの上で「いつ死ぬのか」を探ろうとするなら、多分その人は(というか、その問いは)袋小路にハマって抜けるのが難しくなるでしょう。
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形而上学的な問いに素人が挑む場合は、離脱条件を決めておくと良いと経験上思います。
これも個人的な、身の丈に合ったものでOKです。というか問いを発する前の生身の自分が理解できる離脱条件をしっかり持っておくことは非常に大事なことです。
離脱条件の条件設定は、偏見ありあり、個人的事情モリモリで構いません。
生き死にみたいな内容を探究していくと、小難しい哲学系の議論に巻き込まれたり、それまでの自分だったら絶対に読まないような本・会わないような人と出会っていくことになりがちです。
むやみに慣れない環境に身を投じすぎてしまうと、本当に戻ってこれなくなります。
厳密には「戻る」ことなんてないんですが、一般的に言うところの「普通の生活」が送れなくなる可能性がありますよ、ということです。
だから離脱条件を決めてから問いに飛び込みましょう。
離脱条件の具体例をいくつか挙げます。
お金の話が絡んできたら離脱
自分がそれまで信じていた特定の宗教や信条に反する考えに出会ったら離脱
言ってることはわかったつもりだけど、実践となると難しいと感じたら離脱
こんな感じです。
これらは当てずっぽうに選んでなくて、その道を進むかどうかという分岐点で意思決定を迫られるパターンに沿って選んだ例たちです。
多分、上に書いた例を全部離脱条件として設定し問いの探究に臨んだら、半日と続かないと思います。
そういう場合、そもそも精神的な探究は向いてないんだなと思うのが吉です。
なので、人生哲学とか、宗教的死生観とか、スピリチュアルなものの見方とか、そういうものを探究したくて仕方がないという衝動を持っているなら、ある程度リスクを取る気で勉強する必要があります。
どういうリスクを取るか(取れるか)は、問う人本人のそのときの状況によるんじゃないでしょうか。
例えば、お金が余っている人だったらお金のリスクは取りやすいですよね。同様に、考え方があまり凝り固まってない人だったらいろんな考え方をまず受け入れることは容易いし、身体が丈夫とか時間がたっぷりある人は実践に取り組みやすいと思います。
つまり、取りやすいリスクを選択すればその分だけ戻り(戻し)やすい、ということです。
さじ加減が難しいのは、人間の性癖として、その人にとって価値のあるものを支払わないと、対価として得たものに価値を感じられないという点です。
リスクを定量的に測ってもほとんど意味はなくて、本人にとってどのくらいのインパクトがあるリスクを払ったかが問題なわけです。
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さて、抽象的な話はこれくらいにして僕の話をしましょう。
僕が、霊や精神の世界、哲学的な探究、占星術やタロットの習得と実践…このあたりのことに取り組むときに離脱条件としているのは、だいたい以下のような感じです。
お金 → 毎月のお小遣い以上の書籍は買わない。基本的に書籍以外のものにお金を使わない
宗教観・信条 → ここはかなりフリー。守備範囲広め。
実践 → 瞑想、食事など、生活の中で取り組める範囲のこと以外には手を出さない。
こんな分配でリスクの取り方を大まかに決めてます。
お金の上限は必然的に決まるような仕組みです。月間で「今月はこれ以上使えないな」という金額に達したら、それでその月の離脱条件が真になるわけです。わかりやすい。
宗教観や信条の部分に関しては、元来、思考や論理の限界まで考えるのが結構好きなので、ほとんど際限なく興味が湧いたものに片っ端から手を付けていきます。
ただし、ここで払ったリスクはたいして価値を生みません、僕個人にとっては。
知的欲求がそもそも旺盛なので、鬱屈して滞っているエネルギーを発散しているという(だけ)な要素が多分に含まれます。
最後の瞑想や食事法の実践がこれまでの経験で一番自分にとって身になるなと感じています。
本で読んで終わり、となってしまったメソッドは結局それまでですね。
これまで、そして今の自分にとっては、日々の行動・行為でリスクを取る=リソースを払うのがバランスポイントのようです。
これ以外の領域(お金、人間関係、場所などでリスクを払う)だと少しのトレードオフに耐えられないですし、頭の方は多血気味なのでどんなに使っても湯水のように溢れてくる=リスクを取ることにならないようです。
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僕の場合は「自分がいつ死ぬのか」を知りたくて哲学や宗教や精神世界の勉強を始めたわけではないのですが、いろいろな文献に触れると、世の中的には最重要の問題のひとつと捉えている人がたくさんいるんだな、と感じます。
いつ死ぬのか、死ぬってなんなのか、生きるってなんなのか…こういったことを考えるには、それ相応の準備と忍耐力が要るように思います。
なぜ忍耐力かというと、まだわからないものを「わからないまま」としておく力が必要だからです。そうしないと予断といって、わからないのに「わかったふりをする」「わかったことにして、それ以上考えるのをやめてしまう」ということに繋がるからです。
わからないことをわからないと自覚するのはそれなりに勇気が必要な場合があります。人間には「わかった」と思うことで自尊心を保つ側面もありますから。
生き死にに対する問いを基準にすると、副作用的なものではありますが、こういう形而上学的な問いに取り組む過程で忍耐力や勇気を必要とすることに気が付くと、ある種の精神的なトレーニングになっているなと思います。
疑問に思うことの答えに簡単にたどり着けなくても、それはそれで無駄なことではなくて、実は人間的な成長に繋がってるんだとわかると面白いですね。
SN