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こころからの病
人は幸せを好む。
当たり前なこと。
ただ、幸せになりたいがばかりに感情を湧かし心に負担をかける。
幸せとは何か。
自分はどうありたいのか。
自分たちには幸せなことが沢山ある。それはいろんな物事で感じている。何故、幸せになりたいのか。
不幸になりたくないからに間違いない。
人は物事で幸せを感じ、物事により不幸も感じる。
それが出来事であり、人が人生を歩めば必ず起きることとである。
そんな出来事により人は、悩みなどを抱えることもある。その悩みが深ければ深いほど心を病(やま)す理由となる。
ただ。こころの病は出来事が起き、その出来事に悩み病すことと思われているが、それが原因ではない。
出来事はあくまでも理由であり、病しているのは”心”。その心が原因にある。
人は心を然程(さほど)知らない。だから。心が病しても、心をどうすればよいのか分からない。そして出来事のことばかり考えて感情を湧かす。
”考える”とは感情そのものであり、心を感情で埋め尽く原因を造ってしまうのです。
さて、こころの病とはどんなことか。
ぽち☆はお医者さんでもセラピストでもありません。そんな凡人でも解ることがあります。
鬱・躁鬱・統合失調症・適応障害などなど、どのこころの病にも共通する原因が心なら。
それは”心が幸せに出来なくなってる”ということを。
言い換えれば、幸せではないのです。
人は常々”幸せになりたい”と思っている。
その思いがあるため物事がおきると考える癖がある。
そして、心を然程知らなければ、心を幸せにすることが難しくする。それは考えるという感情に心を囚わせるからに他ならない。
本当の自分はどうありたいのか。
出来事を解決するよりも心を幸せにできれば十分なのかも知れないと想う。
”出来事の解決”と”こころを幸せにする”ことは、同じようでまったく別のこと。「二兎追う者は一兎も得ず」と何の答えも出せなくなる。
なら、自分はどうなりたいか。
常々思っている”幸せになりたい”にそのヒントがある。
それは、心が幸せになれば十分と云うこと。原因は自分の心により心の病になるため、その心は出来事の解決より幸せになりたいと感じているはず。
だから。出来事を考えるのは一旦立ち止まりって見るのがこころに優しく、自身でできること。
その立ち止まることに「出来事と心が不幸」を背負ってしまった自分を変えるチカラがある。それは、出来事を一旦立ち止まることで”今より幸せ”になれること。
それは、ちっちゃな幸せかも知れないけど、それにより幸せは必ず得られている。
出来事を考えることは決して悪いことではない。ただ、心に負担をかける出来事なら、一旦休憩し立ち止まるがこころの余裕を創りだし、その余裕にちっちゃな幸せを埋めはじめる。
そのちっちゃな幸せを繰り返せば、自身が感じれるほどの幸せとなりだします。
本当はそれで十分なのではないかな。
(心のカタチより)