人は独りでは活きられない
人は喜びもするが悩みもします。
喜びを感じているときは”気持ちのままに”いるときです。それには幸せを感じることができます。ただ、一旦悩みなどの感情を湧かしてしまえば幸せを感じることはできません。
悩みは、解消させるのか。時間で解決するのかは自身の自由ですが。悩みによっては自身で解決できない悩みもあるのです。
人はその悩みにもがきながらでも解決しようとします。それでは、湧いている感情に更に湧かし、こころの余裕をなくせば、心を病(やま)します。
当たり前なことですが、できないものは解決できないのです。
『自分は幸せになりたいだけなのに。。。』
そんなとき、人は自身の気持ちとは”逆”の言動(かんじょう)をしでかします。それは幸せになりたければなりたいほど、言動(かんじょう)を湧かしてしでかすのです。
だから。判りることもあるのです。
「独りでは活きられない」と。
人は言動という表面だけを見ることが多々あります。それでは相手の感情に自分も引き込まれてしまうのです。だから、感情がしでかす言動には”逆”の意味があるとも判るのです。その感情は気持ち(ほんね)とは異なる"逆"の現れだからです。
何故そんな言動をしでかしているのか。それはその人のこころを感じることに意味があるのです。
人が心病みそうなときは、自身で解決できなくなっているのは明らかです。ならば、誰かの手(こころ)で感情に埋もれた気持ちを引出すのです。
それは、その人が自身の感情に埋もれた気持ちを気づけなくなっているからです。
人のこころは”幸せになりたい”と思わせる原因があります。それを誰かが気づかせ”こころの治癒”を促せばいいのです。それが自身の気持ちの治癒のはじまりです。
それをさせれるのは同じこころを持つ人であり”心の道徳”が効くのです。こころの道徳には人を感じさせるチカラがあり、こころという手は感じさせ気づかすことができるのです。こころの中にある幸せな記憶を引出せるのです。
そもそも、人の悩みは解決してあげることではありません。和らげることはしても解決するのはその人自身でなけれならないからです。それは”こころの治癒”を自身の”もの”にしなければ、ことは繰り返し病み癖をつけさせます。
今の自分が解決できないことは解決できないと一番判っているもんです。それは、人の手を借りても解決できないとも解ってます。
だから、人は気づかすしか出来ないのです。
『今の自分が幸せではないこと』を。
それは「幸せになりたいか。不幸になりたいか」
と、問えば自身は判ります。今の自分が幸せとは”逆”なことをしているとに気づくのです。
人が出来るのは気づかすこと。今の自分が幸せでないことを気づかせ、自身の意志で”立ち止め”させることはできるのです。それが”こころの治癒”の一歩のはじまりです。
そのはじまりは”今より幸せ”を感じることにあります。
”立ち止まる”には、今までの不幸も止める作用があります。それは既に幸せに転じているのです。感じれないほどちっちゃな幸せでも幸せは幸せです。
それがこころにちっちゃな余裕という治癒を自身ではじめ、その繰り返しがこころの余裕を広げます。それが自分を”気持ちのまま”へと戻してくれる”病は気から”のはじまりです。
よくありがちな時間をかけ解決するのは、心に感情という記憶をしまい込むだけです。解決したかのように思っていても、ひょんなことで悪いその記憶(こころ)を引出します。
それに対し”立ち止める”には、自身の意志が伴います。それは記憶にしまい込むのではなく、あるとすれば記憶に留めるだけで解消も解決もしないでおくことです。
それが、こころに十分な余裕(チカラ)が溜まったとき、自身の幸せがその悩み以上に感じるのです。そうなれば自然と悩みは解消してしまうもんです。自身の心の幸せが一番ならそれに勝るものはないのです。
こころは自分の”もの”。
その人が自分のこころをどう扱うかは自由ですが。
それでも幸せに使いたいのは解りきったこと。そのためにもこころを知れば知るほどに自分のこころを自分のために扱う方法が判るのです。
「人は独りでは活きられない」
こころの手は”こころを引出す”術になることを。
人の孤独(かんじょう)は心に害をもたらします。人の気持ちには感じるチカラがあります。その感じることが”独りで活きなくてもいい”と安心をあたえるのです。
”こころ甘える”
これが人がこころを持つ特権です。使わないのは損という”もの”です。
(心のカタチより)