訛りなつかし
歯医者の待合室で会計を待っていると、一人のお婆さんが呼ばれて診察室に入って行った。
おそらく耳が遠いのだろう。医者の質問に答えるお婆さんの大きな声が、ドア越しにはっきり聞こえてくる。それがすごい訛りだった。
言葉遣いもイントネーションも、昔この地域一帯で広く使われていた方言だ。たとえば女性が自分のことを「おれ」と言うように、聞きようによっては乱暴にも感じられる。
今でも時々そんな訛りや方言の名残りを耳にするが、こんなにネイティブな地元訛りを聞いたのは久しぶりだ。
* * *
子供の頃、家の近くの川に、毎日のように魚取りに行っていた。当時はさまざまな種類の魚が簡単に捕れたが、それでは飽き足りず、たまに網とバケツをさげて隣町まで遠征した。
そこは県境の大きな川を渡ったところで、隣町といっても当時はまだ村だった。明るい田園風景が広がり、大きな池や沼があった。
その日は台風一過の晴天で、池の水が溢れて田圃に流れ込んでいた。一面の水面のところどころに畦道がのぞいていたが、サンダル履きだったので濡れても気にならなかった。
そのあたりで目にする魚は、同じ種類の魚でも、家の近くの川で捕れるのよりずっと大きかった。川ひとつ隔てただけでこんなに違うのかと思ったものだ。
畦道から水の中をのぞき込んでいると、自分と同じくらいの学年の、二人の子供がやってきた。そして、「いし、どっからきたん?」と気さくに話しかけてきた。学校の友達との会話とは違う言葉だが、これは「きみ、どこから来たの?」という意味だ。
いろいろ話してから、二人はバケツの中をのぞき込んだ。
「うんととれたなや。こいの、てんぷらにして、くうとうめぇーんだよな」
(たくさんとれたねー。こういうの、てんぷらにして、食べるとおいしいんだよね)
やってきた子供は、二人ともスカートをはいた女の子だ。よくしゃべる小柄な子と、声が太く背の高い子。二人ともよく日焼けして、頬っぺたにそばかすが浮いていた。
話の内容は子供らしい他愛ないものだったと思うが、「くうとうめぇーんだよな」のところで怖くなり、逃げるように帰ってきた。
* * *
女の子たちの言葉は方言なのだが、県が違うとはいえほぼ同じ地域の言葉なので、理解することはできた。これが遠い地方の訛りや方言となると、理解するのに窮することが多い。
学生時代に青森を旅行した際、帰りの夜行列車まで時間があったので、青森駅の近くで夕食を食べようと思った。
小料理屋のような小さな店で、二人の若い女性がカウンターの中で立ち働いていた。その話している内容がまったくわからない。
これが津軽弁か‥‥。
旅行中にも接していたはずだが、断片的だったのか記憶にない。音もイントネーションも、どことなく韓国語に似ている。ほとんど外国語のようだった。いま思い出そうとしても、その言葉の一つとして思い出せない。それくらいわからない言葉だった。
注文できるだろうかというのは無用の心配だった。女性は完璧な標準語で応じてくれた。そしてまた津軽弁の会話に戻っていった。意味はわからなくても、聴いているだけで心地よかった。
初めて耳にする津軽弁の不可解さと美しさに、軽いショックを受けた。
* * *
隣町のあの女の子たちは、成人して標準語を話すようになったことだろう。生まれ育った土地の言葉も、忘れてはいないはずだ。
青森の料理屋の女性は、立派な標準語を話す一方で、ごく当たり前のように津軽弁でおしゃべりをしていた。自分たちの言葉を愛し、大切にしているのがよくわかった。
歯医者のお婆さんは、この地域の訛りや方言を受け継いだ、数少ない一人なのかもしれない。
いま、日本全国の方言が消滅の危機にあるという。東日本大震災の被災地の方言も該当するそうだ。
石川啄木の短歌に、「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」という一首がある。
現在の上野駅はどうなのだろう。
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