見出し画像

誰かに見守ってもらいながら自由に羽ばたけるなら、それ以上の自由はない


肌寒くなってきて、夕方の匂いがちょっと冬になりかけている頃。。

小学生のわたし。

友達の家から帰る帰り道、
自転車を薄明かりのなか走らせていると、
そこらじゅうの家の台所らしき場所から
あたたかい光がこぼれ、
換気せんから夕ご飯を作っているいい香りが流れてくる。たまらなく幸せな気持ちになった。

でも、それと同時に羨ましくもなった。

自分の家とはかけ離れた光景だったから。

欲しくても欲しくても、絶対手には入らないと、
幼いながらに思っていた。


未だにこの光景はよく思い出す。
幸せな匂いと情景と、切ない想いと二つの感情が入り交じった秋の終わりのこと。。



*****


今でこそ、母は人間らしくなったけど←コラ

わたしが幼い頃は、というか、10年くらい前までは(孫を面倒みるようになってから)、妖精みたいにふわふわとしていてどこかに消え入りそうな危うさと自由さがあって、全然母親らしくなかったので←(今の方が母親らしいという、ミラクルが起こっています。笑)

わたしはたいそう苦労した←ウソん。


料理は苦手、掃除も苦手、甲斐甲斐しくお世話された記憶もない。

でもそのおかげで自分のことは自分でしたし、責任感も強くなったし、自立心も同世代の中ではちゃんとあった気がする。気がする。(2回言った。)


母に言わせると、一生懸命働く背中を見せていれば子供は育つと思ったらしい。笑 ←男性の発想!


母の母親、つまりわたしの祖母もそうだったらしい。そりゃ無茶な教育だ。苦笑


加えて、直感で生きているから、さらに自由なんですね。

さぞかし、自分(母)が思うまま気のままに自由を謳歌していたことでしょう。←とおいめ


母も自由だと子供(私)も自由です。(私自身も性格はかなり自由らしい。旦那曰く。自覚はそんなにナイ。)

たしかにものすごく自由に、誰にもなにも干渉されずに幼少期を過ごせたのだから、きっと周りの友達にはすごくうらやましいことだったのかもしれないけど。←ちなみにグレていません。

誰かに何かを制限されることや、門限だったりが私にはうらやましいことだった。

無い物ねだりですね。


自由は、不自由だ。

の意味が、わかるようで、わからないようで、わかる気がする。


誰かに見守ってもらいながら自由に羽ばたけるなら、それ以上の自由はないくらい最高の自由なんじゃないかと、

今ふと文章を書きながら思ってしまった。


だから幼少期の自由は本当の自由ではないんだなと。

中身のない空っぽの自由だったんだ。

だから虚しかったんだ。と。ふに落ちてしまった。じゃすとなう。


文章って、素晴らしい。

そんなこと、書きながらじゃなきゃ気づきもしなかったなあ。。


母とは今の方がいい関係です。

きっと母を選んで生まれたんだろうなと思うほどに。心のふかーいふかーいところまで話せる。大人になってからだけどね。


なので、幼少期の私に言ってあげたい。

「あんた大丈夫だから心配すんな。」って。



いいなと思ったら応援しよう!