【連載】家族会議『嘘っぽい同情』
「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。2020年1月6日から約4ヶ月に渡って行った会議の様子を、録音記録をもとに書き記しています。
前回の記事はこちら。
家族会議29回目#6|嘘っぽい同情
偏見の目で見られることを恐れ、姉が鬱であることを、他人にはなかなか言えなかったという母。
それに、言うことで相手にプレッシャーを与えてしまったり、変に気を遣わせたりもするかもしれない。
だけど、それも含めてアリなんじゃないかと、わたしは思う。
わたし:
変な、過剰な気遣いしてくる人って、元々がそういう人だし。フラットな人は、過剰な気遣いじゃなく、もうちょっと普通の対応してくれる。中には寄り添うような対応してくれる人もいる。鬱だと知ることでね。
言うことで寄り添ってくれるような人が他にいれば、それが癒しになるかもしれないし。
母:
弱みを見せることなんだね。
わたし:
うん、弱みを見せることは大事だよねって思う。
母:
ハードル高そう。私にとっては。弱みを見せる‥‥。
わたし:
そうだね、やっぱりそうなんだね。
母:
ずっと続いてることだよね‥‥。
わたし:
そうだねぇ。弱くなれって言ってるわけじゃないからさって感じかな。弱くなっちゃう気がするんだよね?きっとね?
言っちゃうと、自分が弱い人だって見られるような気もするし、実際に自分も弱くなっちゃう感じとかもするのかなって。
母:
出したとなると‥‥一旦出しちゃうとそうなっちゃうかね。
わたし:
でも弱くなるわけじゃなくて、弱い部分を見せるだけって感じ。
母:
隠してたものを見せるだけ?特に変わりはないんだよ。ってことか。
わたし:
そうだね。ありのままの人物像を周りにわかってもらうみたいなことかな。
弱音をぜんぜん吐けないと、プロデュースした自分を見せてることになって、それはありのままの自分ではないから、結局は掴みどころがない人に見られるっていうか。わたしもよく掴みどころがないって言われるんだけど。笑 そうなりがちかなって思う。
だからって、今からどんどん言いなよ。っていうわけじゃないけど。
母:
そっか‥‥。
わたし:
同情されるの嫌だとかも言ってたもんね、お母さん。
母:
そうだね。
わたし:
なんで?いいじゃん。同情してもらいなよって。お父さんの病気のときとかも、会社の人に言って、同情してもらったり協力してもらったりすればいいじゃんって感じだった。わたしなら同情してもらいたいけどなって。
母:
なんか言えないんだよね。
わたし:
なんで同情されるの嫌なんだろう?
母:
うーん‥‥。同情されるの、嫌だなあ。
わたし:
嘘っぽいからかな。
母:
同情が?
わたし:
うん。思ってもないのに出してくる。そういう人も多いけどさ、実際。
母:
そうだね‥‥
わたし:
なんかそういう人が多かった?
自分もそうってことかな。
母:
同情するっていうこと?
わたし:
同情できないっていうか人に。
母:
良い同情だよね?良い同情をできないから嘘っぽくなっちゃうし、周りが言うのも嘘っぽく感じる。うーん‥‥。なんか、これはすごく悩むところだよね、自分でも。
なんか、嘘っぽい同情にすごく敏感っていうか。「もういいよそれ以上言わなくても」って言いたくなる。そういうときあるな。
だから自分も、誰かが何か大変なことが起きたときにかける言葉とか、すごく迷う。どんな言葉だったら、嘘っぽくないんだろうって。
わたし:
うんうん。
母:
むしろ言葉が出てこない。結局何も言えなかったりするの。それって何だろ?
わたし:
言葉出てこないみたいなのは、本当そうだよねって思う。わたしも、言葉出てこないことが多いなって思う。言葉かけようと思ったときに。
でも、言葉っていうより気持ちが、文面っていうよりはおそらく気持ちが入ってるかどうかの違いだと思うから
母:
そこを敏感に感じるってことか。
わたし:
うん。そこは感じやすいと思う。同じ言葉でも。
だからあの、「鬱病の人に頑張ってって言っちゃいけない」とかっていうのも、そのまんまじゃないっていうか。その人の立場に立ってない頑張ってと、その人の立場に立った頑張ってっていうのでも、伝わり方が全然違ってくると思うし。そういう意味では、頑張ってっていう言葉も絶対NGではないっていうか。ってことだと思うのね。
母:
お尻を叩くような頑張ってだったら嫌だよね。
わたし:
うん。だから、その人の立場に立ってるかどうか。言葉が何かっていうのはそんなに関係なくて、嘘っぽくなるのは気持ちが入ってるかどうかの違いだと思う。
そもそもさ、人って自分のことが一番で、そうそう人のこと考えてない。相手の立場に立つ人もいないわけだから。だから同情って嘘っぽくなっちゃう。言葉だけで同情すればするほど嫌な感じを与えちゃう。だと思うのね。
相手の立場に立てばいいってことだと思うんだよね。
母:
つい言葉で考えちゃうね。「この言葉?でも嘘っぽいかな」「あの言葉?でも嘘っぽいのかな」‥‥そうすると、なんて声かけたらいいかわかんないみたいになっちゃう。けど、気持ちか。
でもそうだね、自分の気持ちを表した言葉を発しなければ、何も相手には伝わらないよね。
わたし:
そうだね。言ったときに、言った側も、相手に伝わったかどうかってわかるよね。
母:
そうだね。
わたし:
本当に伝えたい気持ちがあったときに、言って、相手の反応を見て伝わったなって思えるときと、伝わってないなってときがあるじゃん。
だから伝わったらもう一言で十分だし、伝わってないときは、その気持ちが何て言えば伝わるかなって、もうちょっと言葉を重ねたりとかする。わたしだったらそういう感じかな。
母:
そうか
わたし:
まあ、お母さんみたいに、同情に対する拒絶反応が強い人もいて、そういう人だと、本気で心配してても最初っから拒否されることもある。それでも本気で心配してる場合は、いろんな角度から、あらゆる気持ちを言葉にして出すみたいなことをやるかな。
もちろんどうでもいい人にはやらないけど。だから気持ちがあるかどうかだよね。って思う。
― 家族会議29回目おわり ―
同情は、社交辞令のような、ある意味では挨拶のような、そんなものだと思う。心に響かない以上、同情してもらえてないのだから、聞き流しても良いのだ。
嘘の同情に嫌悪感を抱くのは、そこにさまざまな欲望が織り交ぜられているからだろう。つまりは、同情したことに対するなんらかの見返りを求めてくるからうざい。
弱みを見せるのは、そんな人間の餌食になる可能性もある。余計に傷つくかもしれないと思えば、警戒するのもわかる。
だけど、似たようなものの中にも、真の同情が混じっていることもあると思う。言わなければ、そんな温かい同情に触れる機会もない。
<次回に続く>
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