心と心が通わない
昨日はブログに、『むなしさの味わい方』を読んだ感想を書いた。
読んだ母が、「よくまとまってたよ」と感想をくれた。
本を読みながら、「むなしさ」について考えさせられたここ数日。
わたしはあまり、むなしさを感じることがないなと、気づいた。
むなしさは誰にでもあり、それがあるのが人生だというならば、ほとんどむなしさを感じていないわたしは大丈夫なのだろうか…?
現代人はむなしさに慣れておらず、突如むなしさに襲われたときに絶望してしまうという話だった。
少し怖くなった。
わたしも、ある日突然むなしさに襲われて、人生に絶望してしまうのではないかと。
それよりはいっそ、日ごろからむなしさを抱えていて、それを味わっている方がいいのかもしれないと。
でも結局、母と話をしながらその不安は解消した。
わたしは無意識に、むなしさを味わっていたらしい。
上手く味わえているかは別として。
母とそんな話をしながら、ふと母のことが気になって聞いてみた。
「お母さんは、むなしさを感じたことはある?」
すると母はこう答えた。
「実はね、結婚してからずっと、むなしいって思っている気がする。」
と。
母は父と結婚してから、ずっとむなしかった。
父と同じ方向を見て、同じ目的に向かって歩いている感じはしている。けど、時々は向き合って話をしたいと、いつも思っていたという。
心と心が通い合っていなかった。
ということなのだろう。
「むなしさの味わい方」の中で、浮世絵を例に挙げて考察をするページがあった。
母親と子供が描かれた絵を見てみると、互いが向き合っているのではなく、同じ方向を見ている姿を描いたものが多く見つかったそうだ。
でもそれは、向き合っていないということではない。
同じものを見て、心を通わせている姿なのだという。
著者の北山修さん作詞の『あの素晴らしい愛をもう一度』で描かれているのも、恋人同士が向き合う姿ではない。
同じ花を見て美しいと言う。
同じ夕焼けを追いかける。
並んで歩き、心を通わせ合っていたふたりの心が、いつの間にか通わなくなってしまったむなしさを歌っている(たぶん)。
重要なのは、心が通い合っているかどうか、だ。
父と母は、それっぽい夫婦だったのだけど、最初から心と心が通い合っていなかったのだろう。
それは、むなしい。
読売新聞の『人生案内』に、40代の主婦からの相談が寄せられていた。
家族に話しかけない夫と、この先どうやって生きていけばいいのか。という悩みだ。
この相談の回答者は、哲学者の小川仁志さん。
他者を変えることはできない。
変えることができるのは自分だけ。
それは、わかる。
でも、たとえ自分が変わったとしても、むなしさを生み出し続ける夫と一緒にいるのは限界があるのではないかと思う。
心と心が通い合っていないと気づいたとき、一緒にはいられないのが人間ではないか。
だから恋人同士は別れを告げる。
恋人を失った喪失感。
心が通い合わなくなった喪失感。
それにむなしさを感じることがあっても、味わっていればいつかは馴染んでいく。
それが別れなのだろう。
でもいつまでも一緒に居たら、心が通い合わないむなしさを噛みしめる間もない。
どんどん生産されていくむなしさに、耐えられるだろうか。
とも言われているけど…。
相容れない関係というのもあるだろう。
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