薬だと信じて毒を盛る毒親
毒親と聞くと、ぱっと思い浮かぶのは暴力による虐待やネグレクトだ。
では、暴力を振るわないわが家の父はなんなのか?
昨日姉が、父の毒親ジャンルをこう定義した。
「毒とは知らず、良い薬だと信じて毒を盛ってきた親」
なんとわかりやすい!
世の中にはこういう親がごろごろいるのではないだろうか。
これまで、わたしたちにとって毒親である父を、他人に毒親だと説明するのが難しかった。
だって、ちゃんと働いてきたし、家も建ててくれたし、家庭にお金を入れないわけではないし、ギャンブルをするわけでもない。
社会的に、これといって悪いことをするわけでもないし、子供の就職先を斡旋しようとしたこともある。
まあ、一般的だし、普通にいいお父さんじゃんって感じ。
だけど、毒親なのである。
足りないのは、「愛」と「考え」だろう。
父の行動の全ては、他者への愛に基づいているのではなく、自己愛に基づいている。
つまりは、自分のことしか考えていない。
そして、偏見まみれの知識しかない。
つまりは、世の中にころがる知識に対し、自分で考え検証することをしないから、「良い薬だよ」と言われたのを鵜呑みにしてしまう。
こうした「愛の足りなさ」と、親や世間から植え付けられてきた偏見をそのまま鵜呑みにしてしまう「考えの足りなさ」が父の問題としてある。
それがなんとも言えず、「惜しい」気にさせられる。
「愛」を知りさえすれば、「偏見」を外しさえすれば‥‥
あと一歩、もう一歩だけなのに‥‥
だけど、その一歩が、強固な壁に阻まれる。
子供のころに愛に満たされず、さらには毒を薬として与えられてきた父の心は、すっかり中毒になっているようだ。
父にとってはその状態のほうが、心地よくさえあるのだろう。
現実はつらく生きづらいはずなのに、幻想の中にいれば考えることも悩むこともない。つらさも痛みも感じなくて済むのかもしれない。
幸いわたしたちは、父が薬だと信じて与えてきたものが毒だと気づくことができた。
姉の身体に、その毒による影響が表れたことが救いだったと言える。
親の価値観や考えは、えてして子供の毒になる。
愛ではないものを愛だと思い込んで与えるのもまた毒だ。
子供が生きづらさを抱えている以上、親は自分が与えているものがなんなのか、考える必要があるのだろう。