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【連載】家族会議『いつも家庭の扉を開けておくといい』
「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。その様子を、録音記録をもとに書き記しています。
前回の記事はこちら。
家族会議5日目#6|いつも家庭の扉を開けておくといい
――5日目の家族会議もそろそろ1時間半が過ぎようとしている。
この日の家族会議は、インナーチャイルドワークをすることをテーマにしていた。傷ついている幼い自分に会いに行って、声をかけてあげようというものだ。
これがなかなか難しい。
わたし:
なんか、そんなにまだタイムスリップしきれてないのかな?
母:
どこまで?子供のときまで?
わたし:
子供のときまでって感じもするけど…。もうちょっと喋った方が、もっと寄り添えるのかな?って感じもする。1人でしんみりじっくり感じてみた方がいいかもしれないね。
母:
もう少し、自分の子供のときの気持ち?
わたし:
まだ大人のお母さんとして喋ってるなっていう感じがする。
母:
そうかもね。やっぱり、そこに行こうとすると本当…、なんだろう、あの生活でおばあちゃんの大変さみたいなのとか、イライラとかっていうのの方が先に出てきちゃって。
それ考えると「しょうがないか」とか思ったり。
わたし:
お父さんもそうだもんね。
――インナーチャイルドワークが難しいのは、大人の自分の意識が邪魔をするところにある。
わたし:
お父さんが2日前ぐらいに、親にして欲しかったことを話したでしょ?それで次の日の朝、「なんかつらかったんだね」みたいな話をお父さんにしたのね。そしたら、「それがつらかったっていうより、それが今、子供に影響してるって思うと泣きたい」って言ったんだよね、お父さんが。
それをお姉ちゃんに話したら「子供の頃の気持ちになりきれてないんだね」って。
悪いというわけではないけど、大人目線で落ち込むんじゃなくって、その頃の子供の気持ちにもっとなっていいんだよって。「つらかったね」でいいじゃんって。
だから、わたしが「つらかったね」って言ったことで、多分小さい和義くん(父)はじわってきて、「うん、つらかったんだぁ」って言いかけるんだけど、大人の和義がかっさらって「それで今がこうなってんだ!」みたいになっちゃうって。
感じる前に、大人の自分が「いいからいいから」って連れてっちゃう感じなんだって。
母:
なんかそうだね。
わたし:
だから一旦本当「感じてあげようよ」ってことみたい。
母:
ある意味難しいというか。親の立場の気持ちがあって、もうちょっとで子供の気持ちにいきそうなのに親の意識が出てくる。みたいな。
わたし:
今お母さんの話聞いてて、お姉ちゃんが言ってたことを思い出したって感じ。大人が子供の気持ちを隠しちゃうっていうか、阻むというか。
母:
なんか、自分がそのとき、嫌なこととかあったときには、そばにおばあさんがいるわけじゃん。なんかそっちの方に気持ちがいく。「でもな」「こんな気持ちだったんだろうな」とか思っちゃうね。
もう何も、おばあさんの都合やお母さんの都合やお父さんの都合まったく関係なく、自分の気持ちだよね。
そのときの情景、そこに行くようにした方がいいのかな。そうじゃないとさ、子供のときってぼんやりと、何年間かあるわけでしょ。それだけだと行きづらいから、やっぱ事件が起きたときの、そこんとこに。よくよく考えるといいのかな。
――子供のころの気持ちに焦点をあわせようとするなら、ひとつひとつのシーンを思い返して、そのときの気持ちだけを感じてみるのがいいのだろう。
ぼやけたまんまだと、いつまで経っても寄り添えず、先にも進めない。
母:
でも、自分のその気持ちに入ろうとすると「あ、これって」みたいになんか、自分の子供のことも思い出して・・・。
わたし:
自分もやっちゃったってことね。
母:
そうそう。自分がやっちゃった方に行っちゃうな。お父さんもそうなんだね。
でもそう思って言わないんじゃなく、よく思い出していった方が先に進めるんだろうな。
わたし:
そういうことなんだって。
――傷ついている過去の自分と向き合う。そうしないと、過去自分がどれだけ傷ついていたのかわからない。だけどその気持ちに焦点を合わせようとすると、物わかりのいいふりをした大人が出てきて邪魔をする。
そもそもインナーチャイルドワークを、娘であるわたしが先導することに無理があるのかもしれない。娘を目の前にして、反省もせずに自らの子供の気持ちに寄り添うのは、親として気が引けるのだろう。
だから思い出せば出すほど、母は「親」としての意識が先に立つ。
母:
こんなに綺麗に同じことやってんだよね(自分の親と)。
わたし:
やっぱり、それしか知らないからだよね。
母:
やってなければ、できないとか…。なんかすごい、日本にとっても損失よね。
わたし:
損失だね。笑
でもさぁ、おばあちゃんたちだけが悪かったわけじゃないっていうか。おばあちゃんたちだって被害者っていうかさ。わたしたちも被害者かもしんないけど。だから立ち切らなきゃいけないんだよね。
わたしが「親戚中で一番幸せな家族になろうよ」って言ったのも、そういう意味が含まれてる。なんで「親戚」かって言ったら、家とかから受け継いできたものが問題だからだよ。
どこも似たような感じだと思うの。どこでも大なり小なり、ちょっとずつその家の問題とかを受け継いで、今も生活してる。だからこそ、それを断ち切るっていうか、ちょっとそこから抜け出して、「わが家なりの幸せを見つけることが大事だよね」っていう思い。だから「親戚の中で一番」って言い方をした。世界中でじゃなくて。
――わたしたちはどこかで、親の教えがあれば生きていけると思っている。確かにそれで、それなりの大人になったりもする。
でも、親の教えがすべてではない。そして、親の教えの通りに生きなければならないわけでもない。
それを知っているか知らないかで、歩む人生に大きな違いが生まれるだろう。とくに親の教えが苦しみを与えるものだった場合に、逃れる術を持たないということになる。無知がゆえに。
教育現場が心の知識を学べる場所であったなら、親がすべてではないと教えてくれる場所であったなら、子供たちはもっと自由に伸び伸びと、自分の人生を選択できるのかもしれない。
父:
しかし、子供のころ忖度って言うかどうか知らんけど、あまり文句も言わず穏便に過ごす。揉め事が起きないように過ごすっていうのが、良いことだみたいにされてきてるから、それも弊害っていうのが大きいんだな。
わたし:
わたしもあんまり言ってないよね。
母:
でも、この話し合いをする中で、少し泉が喋ることがあるでしょう?そういうのは聞いて、「聞けたな」っていうか。ある意味それが、この話をすることの良かったことのひとつというか。
父:
セラピストみたいだ。
わたし:
セラピストみたい?セラピストほど優しくないと思うけどね。
母:
あとは、よくフォローしてくれるよなって感じかな。
お母さんはお母さんの意見で言うでしょ?自分としては、すごく正しい意見を言ってるつもりで、そんなに変なこと言ってないよなって思うようなことでも、泉がお父さんをフォローしてるのを聞くと、「あ、そうか。そこはちょっとこっちが有利だったのかな」とか。
そういうことを気遣ってくれてんのか。
わたし:
気は使ってますよ。
母:
すごいね。こんなこと話す人たちいるかしらって感じだね。
わたし:
こういう話?
母:
うん、子供が。
わたし:
いないよね。
母:
いないよねぇ。面倒見てもらわないのに親の面倒見てるって・・・
――母からは度々「親が子供に面倒みてもらってる。そんな家どこにもない」ということを言われる。子供(姉やわたし)への罪悪感がすごくあるのだろう。それはつまり、自分がしてきた教育を「罪」に値すると認識しているからだ。
父は反対に、罪の意識が薄い。口では似たようなことを言うのだけれど、罪を受け止められる強さがない。
そこはやはり「母は強し」なのだと思う。
- 家族会議5日目おわり -
インナーチャイルドワークは、専門家のサポートがあったほうがいい。もちろん、人の助けを借りなくてもできる人もいるし、専門家のサポートがあっても難しい人もいる。
わたしは、家族の問題に家族だけで取り組むことの難しさを、身をもって感じている。だからこそ専門家の介入をおすすめする。
そもそも、「家族の問題だから家族で解決しなければならない」わけでもないし、「家族のことで人の手を煩わせてはいけない」こともないだろう。
第三者が入らないばっかりに、「事件」という最悪のケースになって、ようやくその扉が開かれるのでは遅い。「事件」ではなく「病気」になる場合も同じだ。
本当は、家庭の扉を開きっぱなしにして、いつでも誰でも気軽に入ってこれるようにするといいのだろう。ただでさえ、他人の家に関心を持たない世の中なのだから。
<次回に続く>
これまでの家族会議記事はマガジンにまとめています。お時間あればぜひ、わが家の会議をのぞきに来てください!
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