【連載】家族会議『娯楽のない家』
「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。その様子を、録音記録をもとに書き記しています。
前回の記事はこちら。
家族会議11日目#4|娯楽のない家
――子供のころ、娯楽というものに触れ合うことがなかった。
母:
娯楽ね。お父さんとお母さん娯楽。何か思いつかないね。
わたし:
なんか子供の頃、みんなのおうちにはコンポとかがあったり、ビデオ見てたり、映画を見に行く人もいるし。あとファミコンとか。どの家庭にもあるみたいなさ。
母:
うちには…
わたし:
そう、何の遊びもないっていう感じだったな、とは思う。
母:
育つときに、今のようなのはないにしてもね。
父:
娯楽もないし、面白くもおかしくもない家庭だったかもな。
わたし:
なんかね、そんなに子供のとき「つまんないな」と思ってたわけじゃないけどさ。
だからいまだに「映画見に行こう」って頭に思い浮かばないよね、そういう習慣がなかったから。
母:
そう。パートに行って、一緒に働いてる人なんか昔見た映画を、こんなのあったねあんなのあったねって言ってるのを聞いて、「何も見たことないわ」みたいな感じだったな。笑
わたし:
そうだよね。わたしもそうだな、映画の話とかされるとついていけない。
母:
子供用の漫画かなんかは1回か2回か行ったかもしんないけども、それ以外は本当に、映画を見るっていうこともなく。
少し遊びを覚えたのは、遊びっていう言い方もあれなんだけど、やっぱりお姉ちゃんがうつになってからだよね。
お姉ちゃんからいろいろ言われて、そうなのかと思ってやり始めた。その前やってた、紙粘土とかあんなのもそうかもしれないけど。
わたし:
お母さんいろいろやってたよね。
――音楽を聞いたり、映画を見たり、ゲームをしたり。そんな”近代的”な遊び方を知らないのがわが家だった。だからといって、つまらないわけでもなかったけど。
でも、そういう「なくても生活できるモノ」から得られることが、生きていくうえで重要だったりもする。
- 家族会議11日目おわり -
今読んでいる、きたやまおさむさんの本『「むなしさ」の味わい方』では、「間(ま)」の扱い方に触れている。
現代は「間」を埋めるものであふれていて、意味のない「間」はどんどん埋められていって、それでもふとしたときに訪れる「間」をどう扱えばいいのかわからずに「むなしさ」を感じてしまう、と。
「間」に慣れていない現代人は、「間」への耐性がなく、そこに絶望感を抱いてしまうことがあるのだと。
子供のころ、自ら「間」を埋める工夫ができる子は、自立が早いそうだ。
もちろん、音楽や映画やゲームが「間」への耐性をなくす元凶にもなり得る。どんどん与えられてしまえば。
だけど「間」が空いたときの遊び方を知っていて、その暇つぶしとして選ぶ手段であれば、与えてくれるものは大きい。
「間」に耐えられなくて埋めようとするか、ふと空いた「間」を楽しもうとするか、その違い。
後者の場合は、「間」がクリエイティブな時間になるという。
<次回に続く>
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