死生観。少し宗教的な話
生きることについて、考えてみます
私はこのnoteを週一で更新していこうと、思っている。けれども、今日書きたいことが浮かんだから、書いておきたい、題材だから、忘れない内に書いておく。
人は、何故生きるのか。もしかしたら、前に書いたかもしれないけれど、相手がいるから。つまり、仲間、友達、そうして家族がいるから生きていけるのだと書いた。
けれども、そうした、当たり前にいてくれる存在。家族や仲間は、永遠に一緒にいるわけではない。だから、今をもっと大切にしないといけない。愛する人を、大切にしないといけない。
生きている内に、一度は無条件で愛してくれる人に出会う。その始めが、母親である。母親はいつまでもいてくれない。そうして次に、妻と言うべきだろうか、私のことを無条件に愛してくれる人に出会った。いつも、当たり前に話しているけれど「そんな私と、いつも一緒にいてくれてありがとう」と涙ぐむこともあるのである。
私も人である。だから、愛や喜び、悲しみはあるのである。けれども、私の人生は辛いことが多かった。先ず17歳の時に、私は統合失調症になった。今まで散々いじめられてきた。
病気になってからは、異質なものに見られて、仲間はずれにされた。深い孤独を経験したものです。その中でも、悪友ではあったけれど、彼なりに私のことを気遣ってくれた親友もいた。私が勉強を始めた時、君は私に強く当たったものだ。
君の元から、私が去っていく。離れていくことが怖かった。今思えばそう思うのだ。大切な人。特に親友が離れていく時、私達はその僅かな変化に気づくものです。そうして、離ればなれになって、もう16年経つけれど。私は、彼との友情を忘れたりはしない。
彼がいたから、私は一人ではなかった。そうして今の妻に出会うこともできた。人生には必ず意味があるのかもしれない。そう、自身に言い聞かせながら、今日も働いてきた。帰ってみると、やはり書きたくなるのである。私は、書けない自分が辛い。
本当は、もっと書きたいのである。けれどもその夢を叶えると、家族はばらばらになるかもしれない。私はもう、一人にはなりたくない。会社がある。帰ると家族がいる。そういう、とても些細なことであるけれども、「ありがとう」と言える人たちと、できる限りそばにいたい。
だから、私は働き続ける。それが答えなのかもしれない。人生とは時に、残酷である。何故ならば、課題は与えてくれるけれども、答えは与えてくれない。そうして、いつまでも解は見せてくれない。神様は思ったよりも厳しい。
その中でも、生きていくということは、宗教につながるものがあるのでは、ないだろうか。私は無神論者だ。もちろんそれは表面的な話である。もしかすると、神様の存在を誰よりも信じているのかもしれない。
何故ならば、私は、「私」を感じているのだから。私は何故か、私なのだ。そうして何故か、統合失調症になった。けれども、こうして家庭を持つに至った。不思議なものである。
けれども、生まれ変われるならば、もう一度、私を生きてみたい。親友に、嫁にもう一度会えるならば、辛い15年間を、もう一度耐えることができると思う。
病気はいつまでも続かない
病気は、終わりのないような事象にみえる。けれども、必ず終わりはくる。心の病気は時間が解決してくれる。今厳しい状況のあなたも、諦めないで欲しい。こころの病気の最強の処方箋は時だ。
幸い、私達は日本という豊かな社会にいる。だから、仮に働けなくても、セーフティネットはある。だから、少しずつ、私がしていったように、社会復帰すると良いと思う。
生きることが一旦楽しくなると、後は自動歯車のように、人生は好転していく。もちろん、そのなかでは、沢山出会いと別れがある。もう、思い出せない人もいるはずだ。
私は職を転々としてきた。今35歳だけれど、もう18社転職している。私もつらい時期は、点々としてきた。だからこそ、社会はあなたが求めるならば、門を開いてくれる。
恥ずかしい話だけれど、私は身を持ってそれを証明してきた。だから、今が辛くても、決して諦めないで欲しい。あなたにはきっと、大切な両親、恋人がいるはずだ。
幸せなのである。もちろんそれでも不幸に思うことも、あると思う。不幸に思うならば、思う存分不幸にひたるのも人生だ。けれども、生きているということは、あなたは誰かに会いたいという事だ。人はあなたを変えてくれる。
何故ならば、あなたが人を変えているのだから。お互いが、教え合ってより良い人生を生きていく。それが生きることだと思うのです。そういう存在を人間と定義して、本記事を〆ます。