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「お客様は神様です」はChatGPTによれば、三波春夫から始まる、というカスハラ考察

2024年現在、このタイトルで書き出しても「誰?」という反応になると思いますが、日本の昭和を代表する大正生まれの演歌歌手のお一人が三波春夫さんでした。
もう23年前も前の2001年4月に77歳で亡くなっているので30歳以下は、ほとんどリアルタイムで見た記憶はないと思います。

最後の紅白出場:1999年

紅白歌合戦の最後の出場が1999年、モーニング娘。が2回目の出場を果たし LOVEマシーンを歌った回でしたの、かろうじて32歳以上だと歌声を聞いた記憶が残っているかもしれません。はたまた2008〜9年と映画化された「20世紀少年」の春波夫の方が本人よりも印象に残っている人が多いかも知れません。

紅白29回連続出場

三波春夫さんご自身は1958〜1986年まで紅白歌合戦に29回連続して出場。1964年と1966年は、美空ひばりを抑えて大トリを務めたので、その頃がピークの頃かなと思います。その三波春夫さんを、なぜ、今頃話題にするかというと…。

カスハラ話題の多い昨今

カスタマーハラスメント、略してカスハラに関するニュースをあれこれ、最近耳にすることも多く、私の次女も小売業の現場でレジ対応したりというカスハラに遭遇しやすい仕事に就いているので、ある日、妻との会話にカスハラのニュースがあがったのでした。

カスハラについて、一言では片付けられないとは思いつつ、日本の商売の原風景の中で、いまだ「お客様は神様です」という言葉が根強く日本人の意識の中に深く染み込んでいる感じがあって「お客様は神様」なんだから、という顧客意識を肥大化させていけば、カスハラに行き着くわけなので、その「お客様は神様」という感覚はどこで、いつ頃、生まれたものなんだろうか?と、ふと、気になりChatGPTに聞いた結果としてのこの記事です。

お客様は神様です、って言葉、誰が作ったの?

私:
お客様は神様ですという言葉は誰が作ったのでしょうか?
ChatGPT:
「お客様は神様です」という言葉は、日本の演歌歌手である三波春夫(みなみ はるお)が広めたものです。三波春夫は自らの公演でお客様に対する敬意を表すためにこの言葉を使い始めました。このフレーズは、お客様を最大限に尊重し、サービスの質を向上させるための理念として広く認識されています。

ある日のChatGPTとの履歴

というような回答が出てきました。

え、三波春夫?

「え!? 三波春夫。。。ああ、あ、あー。なるほど!確かに。」
という反応になってしまいました。

もっと昔の士農工商的な日本の前近代的な頃の、何かの名残かな?と見当をつけていたので、あまりに最近の、といっても昭和の頃の話だったので、意外な回答という印象だったのです。

筆者は三波春夫さんの全盛期ではないものの、毎年紅白に出場していた頃を毎年、実際に見て、聞いて育った世代だったので、AIに言われてみて「ああ、確かに、三波春夫だ、なるほどー言っていたな〜」となってしまった訳です。

両手を広げて、たしかに!

あの当時、確かに「お客様は神様でございます」というように観客の前で、両手を広げて左右のお客様に目線を配り、深々とお辞儀をして舞台袖に退出していくという締めのパフォーマンスはたびたび目撃していましたし、当時レツゴー三匹というお笑いトリオがいて、そのメンバーの一人が「三波春夫でございます」と登場して、あまりに似ていないので残りの二人がドツくというギャグがあり、その中で三波の決めゼリフ「お客様は神様でございます」を披露するという流れもあり、三波春夫本人、レツゴー三匹によって、「お客様は神様でございます」は日本中にテレビを通じて拡散・定着された感があり、その印象はハッキリと残っています。

東京五輪〜所得倍増〜大阪万博の只中で

先に1964年に美空ひばりを抑えて大トリを三波春夫が務めた、という事を書きました。1964年は東京五輪の年であり、五輪に向けて日本が高度経済成長の真っ只中、所得倍増計画が1960年に池田首相によって唱えられ、1967年10月に所得倍増計画は達成されました。そして1970年に大阪万博が開催されていきます。あの頃の時代の怒涛の経済成長の、伸び代しかなかったであろう昭和の成長期に三波春夫は、あの明るく伸びやかな歌声で紅白で大トリを務める大スターでありました。

美空ひばりを抑えて大トリ務める大スター

その当時の、その言葉の浸透力は、確かに凄いものがあったのでしょう。
全盛期ではなく、後期の三波春夫しか知らない私でも、三波春夫の「お客様は神様でございます」の言葉は、本人のも、芸人のも、モノマネする多くの人の、はたまた、三波春夫の語句を引用して使う多数の講演者、経営者からも聞いたことがあります。

都合のよい言葉であったろう「お客様は神様」

そう、たぶん経済成長期の経営者にとって「お客様は神様でございます」は、とても都合のいい言葉であったに違いありません。「お客様のために」といった言葉と共に徹底的にお客様にぬかづかせることは、従業員を管理する上で、とても有効に機能したと思われます。

そう、経営者という最上位者を超えて、お客が偉いという序列を設定し、私達のトップたる社長ですらも「お客様は神様なのだから」と頭を下げることによって王よりも上なるもの「神」という序列が出現し、「神」の言葉なのだから絶対に「お客様との約束(納期やら、なにやら)」は守りなさいと語るだけで、従業員全てを統べることができるのです。「神」という記号を持ち出したいし、掲げたかったのだろうと想像します。(この辺の構図は日本固有の天皇〜将軍〜民といった構図と同じです)

異なる故郷を持つ集団就職者のガバナンスとして

まだまだ前近代の社会意識を抜け出られてはいなかったであろう1965年(昭和40年)頃は、男子・女子とも求人倍率は3倍を超える集団就職の時代でした。企業は多くの労働力を地方出身者に求めました。地方それぞれの風土で育った一人ひとりの個性・特質の違いを乗り越えて「お客様は神様なのだから」「お客様のために」まじめに仕事に取り組みなさいという共通目標を与えて出身地の違いを乗り越えうるガバナンスが有効に機能し、統率力を発揮したんだろうなあと思います。

そう三波春夫が「お客様は神様です」と言ったからという理由だけが、「お客様は神様です」を根付かせたのではなくて、その言葉を都合よく利用した多くの人たちがいた、という事なんだと思います。

高度経済成長期に求められたシンプルでわかりやすい言葉

敗戦後の喪失や傷を20年足らずで高度経済成長を遂げうる日本という、新たな「強さ」を求めた一種のマッチョイズムでもあったし、何よりシンプルでわかりやすい、という事が大きかったと思います。

そして買う私、という場面では、私は神様なのですから、こんなに気持ちのいいものはなかったとも思います。高度経済成長期「買うカネなら、あるがな、もっといいもん見せてくれんか?」的な、消費者側の意識も次第に経済成長で懐が豊かになってくる中で肥大化していったんだろうなあと。

対する商売人も、お金を沢山落としてくれるお客様は、誠に神様!と唱えることで徹底的に拝金的な本音を見事に隠すこともできたと思います。

そんなことで、時代の空気ともマッチし、気分にもマッチし、買う場面では、誰もが「神」なのだから、これほど気持ちのいい立場もない、というような背景で急速な経済成長と同じようなスピードで「お客様は神様です」が浸透・定着していったような気がします。

記号化する「客」=「神」

先に記号化した「神」=お客となり、眼の前のレジに立つ子供が隣の悪ガキ(昭和ことば)であっても、流通チェーンのスーパー店員になったとたん「いらっしゃいませ、ありがとうございます」となります。

もちろん子供だから、軽んじて対応していい、ということではありません。ですが子供であってもお金を払うお客様として丁重に対応するというマニュアル教育が施されていったとき「神」=「お客」=記号としての、となっていったような感じがします。そういう高度に記号化された接客体験をコンビニで、スーパーで体験して育った子どもたちは、その記号的関係を当たり前のものとして育つのでしょう。

私達はふつうに生きて、呼吸して、快も、不快もある一人間であり、かつての昭和の駄菓子屋のばあさんがそうだったように、悪さをすれば「このクソガキ!」と罵倒されながらも、毎日、学校帰りに、その駄菓子屋に通っては悪態をつく、関係性を生きていました。この関係性が「客」対「従業員」という記号の関係になり、その記号の役割以上の権利意識が肥大する時、絶対者暴君としてのカスハラ主が生成されるのかもしれません。

確実にカスハラ主の脳内に、俺は「客」「金払っている」「だから偉い」「なのに、その対応はなんだ」といったことばの暴走連鎖サーキットが形成され、歯止めなく、そのことばによってドライブされた身体を、より行使していく、という動物的な回路と反応が、カスハラの背後にはあると思うのですがエビデンスはありません。

いまだ前近代の意識を抜けきらない日本

前近代にあった武家を筆頭として士農工商といった身分制度の中で、上の者にぬかづくという文化的遺伝子はもともとある日本です。お客という上なるもの「神」にぬかづくのも、それほど違和感なく受け止めえる「スローガン」であったかもしれません。

そして、その上下関係が固定化されているのではなく、全ての人が消費者になりうる以上、誰もが「神」となりえて、誰もが商売を行うときには客にぬかづくものになるという反転構造というか、主客が転換する運動性があったことで揺らぐことなく定着していった価値観であった、というようにも感じます。深くぬかづけるものこそが、多くのカネを手にして大盤振る舞いできる客と成りうる。こうして一層「お客様は神様です」はドライブしていくのでしょう。ホストカルチャーはそんな構図のひとつの感じもします。

さて、ここまで書いて、あらためて「お客様は神様」という理念が外国よりも、日本で強い影響を与えているのはなぜ?とChatGPTに聞いてみました。


「お客様は神様」という理念が日本で特に強い影響を持っている理由として、以下のような文化的、歴史的、社会的な背景が考えられます:

  1. 伝統的な敬意と礼儀の文化:

    • 日本の文化では、他人に対する敬意や礼儀が非常に重視されます。この考え方は、サービス業においても顕著に現れ、顧客に対する丁寧な対応や配慮が求められます。

  2. ホスピタリティの文化:

    • 日本には「おもてなし」の文化が根付いており、サービス提供者は顧客に最高の体験を提供することが期待されます。この精神は、顧客を「神様」として扱う考え方と一致しています。

  3. 経済成長期の影響:

    • 高度経済成長期において、競争が激化し、企業は顧客を獲得するために「お客様は神様」という理念を強調するようになりました。この時期に確立された顧客第一主義の風潮が、現在も続いています。

  4. 企業のマーケティング戦略:

    • 多くの企業が顧客満足を重視し、マーケティング戦略の一環として「お客様は神様」という理念を採用しました。これにより、顧客の要求を最優先にする姿勢が一般化しました。

  5. 社会的な同調圧力:

    • 日本社会には、他人と調和することや、集団の中での役割を全うすることが重視される風潮があります。このため、顧客が満足するように最善を尽くすことが当然とされる場合が多いです。

  6. 宗教的・哲学的な影響:

    • 神道や仏教などの影響で、人々の生活において神聖な存在や目に見えないものに対する畏敬の念が強く残っています。この影響が「お客様は神様」という理念にも反映されていると考えられます。

  7. メディアとエンターテイメントの影響:

    • 演歌歌手の三波春夫が「お客様は神様です」と語ったことが広く知られ、メディアを通じてこの理念が普及しました。このフレーズが日本のサービス業の一つの基準として広く認識されるようになりました。

これらの要因が組み合わさり、日本では「お客様は神様」という理念が他の国々と比較して強く根付いているのです。この理念が顧客サービスの質を向上させる一方で、過度な要求やハラスメント行為を助長する側面も持っています。


ということです。

こういったChatGPT-4oの分析は、まあ、それなりにそうだとは思います。が、三波春夫さんを起点に、ああだ、こうだと書いた訳ですが、最後の7番目にメディアとエンタメの影響ということで、ChatGPTが控えめに三波春夫さんに言及しています。

あの当時の三波春夫さんのスターとしての存在感に加えて「お客様は神様です」という言葉が登場し、御本人のつもりとは別に、どんどん、その言葉のみが都合よく解釈され日本中に拡散されていきました。

御本人のつもり、については上の公式サイトに記載があります。

とはいえ公式サイトの記述を読むに「神様」という刺激的で、心地よくなる言葉が、思わず口から出たことを「三波春夫が、お客様を神様だと言う面白い場面があるよ」という事で各地のプロモーターからリクエストが出て、続けることになった、という事が書いてあります。

敗戦後の希望としての「お客様は神」

思うに当時の聴衆は待望していたのだと思うのです。
日本は敗戦しました。
戦前の日本は天皇主権の国家体制を維持するため、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祖先神とし、代々続く(万世一系)天皇が治める「神の国」と教育していました。
その神の国が負けた、という事の失意の中で、民を神と呼ぶ人間がいると。

三波さんのステージ上、司会の宮尾氏のトーク力の上で、三波春夫さんの「お客様は神様です」が魅力的なキーワードが引き出され、その魅力的な言葉だったからこそ、聴衆に受け入れられたのだと感じます。

それもヒトラーばりの演説ではなく、あくまでも大衆藝能の歌うたいの場での話しです。ノンフィクションとしての「神」は受け入れられなくとも、フィクションとしての「神」は面白かったのでしょう。

フィクションとしての神であったからこそ

この客という神は我である、という見解はフィクションとして藝能人の演歌歌手によって語られ、という、そこに受け入れられる余地があったのだと思います。

三波春夫、アマノウズメ説

そう考えていくと三波春夫はアマノウズメのように見えてきます。
アマノウズメのお話を知らない方のために、引用します。

アメノウズメの物語で一番有名なものが「岩戸隠れの段」というお話です。

これは太陽神である、「アマテラスオオミカミ」が弟神である「スサノオノミコト」の暴虐武人な振る舞いに心を痛め、天の岩戸にお隠れになってしまうところから始まります。これにより、日の光を失った世界は闇に包まれ、怨霊が沸き立ち始めるのです。

八百万の神々は天の安河の河原に集まり、話し合います。ここで知恵の神である「オモイカネ」が思いついた案が、アマテラスオオミカミの興味を惹き、自分から岩戸を開いてもらうというものでした。

この役目を担ったのが、技芸の女神であるアメノウズメだったのです。

アメノウズメは岩戸の前で宴会を開いてもらい、賑やかな様子をアマテラスオオミカミに聞かせます。これはアマテラスオオミカミに別の太陽神が現れ、世界に光が戻ったと思わせるためでした。

この宴会の場でアメノウズメは、桶を並べて踏み鳴らし、着ていたものを脱ぎ、半裸状態で神がかりの状態を演じ、踊り狂いました。これに八百万の神々は高天原に響き渡るほど大爆笑します。

するとアマテラスオオミカミは自分より貴い神とはどのような神か気になり、岩戸から顔を出します。ここで「フトダマ」という神が「八咫鏡」という鏡を使い、顔を出したアマテラスオオミカミの顔を映し、実際に太陽神がいると思わせたのです。これにより、さらによく見ようと岩戸から出てきたアマテラスオオミカミを「アメノタヂカラ」という神が引っ張り出し、この作戦が成功することになりました。

https://mainomichi.com/mblog/amenouzume/

アマノウズメの踊りに、八百万の神々は高天原に響き渡るほど大爆笑したとのこと。そう三波春夫と宮尾氏のトークによって八百万の聴衆は大爆笑し、「お客様は神様です」という新しい客=アマテラスオオミカミを引き出す(目覚めさせる)ことに成功したのです。

哀しげな歌も明るく聴かせる三波の“天性の明るさ”に救われたと語り「金銭的な報酬を与えてくれる観客を神様と持ち上げていると思われがちだが、三波自身は神の面前で歌を披露する存在」とは作家の森村誠一さんの発言ですが、その“天性の明るさ”を思うに、アマテラスオオミカミという神の面前で歌を披露したアマノウズメそのものであるようにも思います。

私自身の記憶の中でも、三波春夫さんは本当に明るい人でした、その歌声といい顔といい晴れやかさに満ちていた三波さんだったからこそ、高度経済成長の只中でのシンボルたり得たのだと思います。

こうして日本全国に定着していった「お客様は神様です」がカスハラの源流にあったとして「お客様」意識が記号と化して、大きく変容してしまった現在、肥大化した「神意識」にあって、「アマテラスオオミカミ」は再び天の岩戸に隠れてしまったようです。

今こそ、三波春夫さんのような人物が再び現れ、「お客様は神様ではない」と歌い直し、健全な顧客サービスの在り方を見直す時かもしれません。
「客」を笑い飛ばせるアマノウズメの登場が待たれます。

ChatGPTへの「よきとい」の番外編として

ChatGPTへの質問によって、始まった、とりとめのないこの記事、飛躍もたくさん含んでいますが、個人的には、まあまあ面白かったです。7000字を超す長文にお付き合いくださる方は、ほぼいないであろうと思いますが、よきとい番外編として、ChatGPTに問うたら、こんな意外な着地点にたどり着きました、という事例として三波春夫アマノウズメ説、記録として残すことにしました。書いている本人も、そんなところに落着するんだ!と驚いています。

AI起点での、人の思考や思索の旅の行方を探るnoteらしいかなあと。
冗長な駄文に長くお付き合いくださりありがとうございました!


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