滅びに向かう種として、どう生きるか。
この惑星で数万年間にわたって繁栄を享受してきたヒトという種は、いま滅びに向かい始めていると思う。ヒトが大脳を駆使して発達させてきた「文明のシステム」の矛盾が限界に来ているからだ。気候崩壊のティッピング・ポイントはすでに越えたとも言われており、食糧生産の低下や格差拡大、大災害の頻発や新たなパンデミックなど、さまざまな困難が降りかかることが予想される。
個体数が0にまでならなくても、何十年後かには、食糧生産やエネルギー、経済、貿易、交通、通信など、現代生活を維持する巨大システムを今までのようには続けられなくなって、人口も大きく減っていく展開は予想できる。人類が発展させてきた文化や芸術など文明の精華も、次第に受け継がれなくなっていくだろう。はるか何万年後かには、都市も高速道路も新幹線も廃墟となって緑に覆われ、野生動物の天下になっているかもしれない。
「ヒトが滅びに向かうのなら、僕らの日々の営みなど虚しい」と、以前の自分は思っていた。たとえばアインシュタインが相対性理論を定式化することで宇宙はヒトという窓を通して宇宙自身の成り立ちを深くとらえられるようになったわけだけど、ヒトがいなくなったら、あるいはその文化が失われたら、そうした認識のブレイクスルーも無に帰してしまう。なんのためにここまで文化芸術を発展させてきたのだろう。そんな風に考えていたのだ。
しかし最近、ちょっと考えが変わった。
真木悠介「気流の鳴る音」に、太平洋戦争中に南洋で捉えられた日本人B・C級戦犯が、処刑が決まった後に歩く道行きで、森羅万象の美に目をみはったという話が出てくる。「自分はどうなるのだろう」と将来への不安を抱えて過ごしていた彼らが、「もう死ぬのだ」と決まったとたん、初めて「いま、ここ」の生の豊穣さに目が開かれる。
そう考えると、もしかしたら「僕らは近々滅びるのだ」とヒトの大多数が悟ったとき、いったんは絶望するかもしれないが、その上で、いまここにある自他の生命をかぎりなく愛おしく感じるようになり、もしかしたらそれによる意識変化から、過剰消費やマネーゲームや紛争などが多少なりとも抑制され、絶滅への道がソフトランディングに変わる可能性もあるのではないだろうか。
僕たちは「滅びへの道」を歩んでいるのかもしれない。でも、だからこそ、日々の一瞬一瞬を大切に、お互いを慈しんで生きていこう。そうすることで、滅びへの道行きも楽しく美しいものになるかもしれないのだから。