28年間苦しんだアトピーをほぼ完治させた道のり。
こんにちは、しむしむさんです。僕は35歳。この夏(2018年)は28年間苦しめられてきた僕のアトピーがほぼ完治状態になってきたので、少しシェア。誰かの役に立てばいいと思って書きます。
これは僕の5年に渡る記録。
僕は、7歳の頃からアトピーを発症した。3人兄弟の長男で、一番下の妹が生まれてすぐに、東京の郊外の武蔵小金井の社宅から、豊洲の社宅に引っ越して来た。
今、話題の豊洲だが、当時は工業地帯で煙もくもくの環境だった。
親は空気が悪いとか、食品が悪いとか、大変心配していた。
アトピーも、はじめは、腕と足の関節の内側だけだった。
ただ、その当時なぜか、「アトピーは大人になったら治る病気」と言われた。しかし、大学になっても、社会人になっても治らず、アトピー軍はだんだんと領地を拡大していくかのように広がっていった。
仕事をするようになって、それは顕著に悪化した。
腕と足以外に、脇が痒くなり、体全身が痒くなり、顔にやってきて、頭にやってきて、股間も、全身が痒くなってきた。痒くないのは足の裏側だけだった。
夏場は地獄だ。
夏になると、かき乱してしまい、シーツとシャツは大体、血がついてしまう。クリーニングになるとシミ抜きが必要になる。
病院もいろいろ変えて、ステロイドを使う医院、漢方を使う医院、大学病院などいろいろと変えても一向に効果がなかった。
アトピーに効くと言われたことは何でも試してみた。
グルテンフリーにしり、水素水飲んでみたり、MLMのサプリを飲んでみたり、
肉をやめたり、ファーストフードに行かないようにしたり、
最善を尽くすが、気休め程度にしかよくならなかった。
結局、全部やめてしまった。
さらに、努力とは裏腹に
30代になってくるとどんどん悪化するばかりであった。
仕事のストレスは、危険信号を周りに知らせてくれるかのごとく、
体にアトピーとして出続けた。
当時、企業向けの人材育成の仕事をしていて、コンサルタントとして営業したり、研修をつくったり、やりがいのある仕事をしていた。
人材育成の1番の喜びは、
「人が変わること」。その結果、組織がよくなるからだ。
「お客さんの変化」は僕にとって一番の喜びだった。
職務的な充実はあるもの、労働時間も長く、ストレスは高まり、アトピーは悪化していった。
アトピーが悪化して一番辛かったのは、顔にでることだった。
アトピーも洋服に隠れる領域で痒い時には、まだよかったが、顔に出ると凹む。赤くなって、お猿さんみたいになるからだ。
周りからしたら大した変化でなくても、かなり落ち込む。
そのうち、その顔のアトピーもストレスに感じるようになっていき、
ストレス→ アトピー悪化→ストレスがループして、
このままだと精神的に参ってしまうと思い、仕事のスタイルを変える必要があると思って、会社を辞めることにした。
それが2013年9月末のことだ。
やめて、1ヶ月放浪の旅にでると、なぜか、アトピー軍は後退していく。
しかし、日本に戻ると、また元どおり全身に広がった。
当時の写真を見ると、冬場はそうでもなさそうにも見える。ただ、ずっと波があって、良くなったり、悪くなったりを続けていた。周りにはその辛さが伝わらない。
季節の変わり目は特に苦しく、四月と十月頃になると体調が悪化する。
冬になると喘息を併発する。
アトピーだけでなく季節の変わり目は、自立失調気味になって、体がドーンと重い感じになってしまう。朝ベッドから起き上がれない日もたくさんあった。
そして夏は、先述の通り血だらけになるなど、結構地味に辛いのだ。
「なんとかして変わりたい」からのどん底へ!
そこで、2016年に年始の目標に「アトピーを完治させる」という目標を設定した。これが地獄の入り口だった。
いろいろと調べて、極端な結論にいきつく。それが、「脱ステロイド」だ。ステロイドの薬を突然抜くというものだ。これは結論からいうと、科学的に根拠のない危ない民間療法だったことに気づくが、その時は盲信的だった。
2016年1月。病院にいかず、薬を塗らないようにしていった。すると大変なことが起きた。
1ヶ月もすると、皮膚の皮が毎日、茶碗分一杯分ほど、剥がれ、血が出て、寝れないし、日常生活に支障をきたしていた。痒くて眠れないし、仕事中も痒すぎる。搔くと皮膚が鰹節みたいに皮膚がパラパラと落ちてくる。
皮膚がないと、体温調節ができなくなってしまう。
そのため、平熱なのに、高熱の時のような激しい寒気と震えに悩まされた。
治すと決めていたので、きちんと写真を撮っていたが、結構壮絶なことがわかる。
身体的にも、メンタル的にも大きな打撃を受けた。
朝になると顔が粉吹いていて、白くなっている。
この顔を鏡で見ると悲しくなる。どんどん心が悲観的になっていく。
元気だった僕はどこにいってしまったんだ、って。
あの頃は藁をもすがる思いで、どうすればいいのかを探していた。
ネットの情報には、ステロイドが危ないとたくさん書かれていた。
脱ステロイドを乗り越えれば、アトピーが治ると書かれていたけど、とんでもない危ないものだ。ネットの情報は鵜呑みにしてはいけない。
かく言う僕もこれをネットで書いているが、これをこのまま信用しないで欲しい。
これはあくまで、僕の体験談なのだ。何かを勧める意図で書いていない。
辛くなりすぎて、精神世界を勉強したくなる
人はどうしようもなく辛いことがあると、やっぱり宗教とかスピリチャルとか、そういう精神世界にすがりたくなるもののようだ。
僕は高校・大学とミッション系(キリスト教系)だったので、高校時代にキリスト教の授業があった。2000年前の人々も、どうしようもない病や天災に、信仰することで救いを求めていた。
アトピーが悪化した僕の場合は、宗教ではなく
スピリチャル系と言われるセミナーやセラピーをたくさん勉強した。
呼吸法やマインドフルネスも勉強した。
もともと人材育成を生業にしているので、セラピーやセミナーは、
割と本業との関連性があるので、勉強だと思ってたくさんの投資もした。
おそらく100万円以上、投資をしたと思う。
高いお金を払う中で、わかって来たことは
「病気は自ら選択している」
「病気でいるメリットを考えなさい」
という問答を考えることで気づきがあった。
アトピーを自ら選択しているなんて、受け入れがたい気持ちがあったし、
アトピーでいることにメリットなどあるのか甚だ疑問だった。
しかし、考えてみるとだんだんとわかってくることがあった。
詳細は、後述する。
一方、脱ストロイドの影響で、精神的にも身体的にも限界を迎えるほどになって来た。
八戸のスーパードクターとの出会い
そして、2016年5月、人の紹介で青森県八戸にすごいドクターがいると聞き、
休みを1週間とって、通院することにした。
それが薄場医院だ。
真っ赤な僕をみて、80歳を超える薄場先生は
「辛かったね。もうここで治るから大丈夫」とおっしゃってくださった。
脱ステロイドを勝手にやって取り返しのつかない僕みたいな人が
全世界からくるのだろう。ハワイやボストンからも来院があると聞いた。
通院は4日間、写真のとおり、劇的によくなった。それは奇跡と言ってもいいものだった。
包帯でぐるぐる巻きにされて、お薬をベタベタに塗られる。
この包帯を取ったのが4日目。卵みたいにぷるぷるの再生された肌が出て来た時、感動した。
薄場先生には、独自の薬と治療方針があって、目から鱗だった。
病気のメカニズム、適切な薬の使い方、ステロイドのメリットとデメリット、薬の塗り方、風呂の入り方、肌の手入れ、洗濯方法、洋服と繊維、生活で気をつけることなど、肌だけではなく、それに伴う生活習慣を、診察の間にビデオで勉強させてもらった。
大量の資料をいただき、理屈がわかるとしてアトピーにしていいことと、いけなかったことがわかった。
すぐに下着を木綿100%に全部変え、洋服も木綿生地のものに買い変えた。
習慣として変えるべきことがわかって来た。
余談だが、意外だったのは食事は気にしなくていいと言われたことと、ジーパンを履いてはいけないと言われたこと。
※紫色の薬を塗られて、アバターみたいになった。
半年に1回は通院しなければならず、八戸には2年間で4回ほど通った。完治まで、あともう少しだった。ただ、東京から八戸は流石に遠いし、お金もかかる。
そして、途中、悲しいことに3回目の通院前に、2017年3月に薄場先生がお亡くなりになった。
本当に悲しいことだった。でも、多くの方をお救いになった先生は神様のような存在。本当に感謝の念でいっぱいで、話を伺った時に合掌した。
3回目、4回目は薄場先生の娘さん先生が診察をしてくださった。薄場先生亡き後も、治療方法は八戸で生き続けている。
薬を変えずに、意識を変えただけで完治した
薄場先生のおかげで大分よくなったものの、完治まではあともう少しで、ゴール前で低迷していた。
そうこうしていると、一緒に働く女の子が良い皮膚科があると教えてくれた。
東京・狛江にある細谷皮膚科だ。細谷先生は女性の先生でもう三十年以上のベテラン。メンタルもケアしてくれるそうで、ここも予約が二、三ヶ月先まで取れない。完治するのは、あまり期待していなかったが予約を取った。
しかし、ここで劇的に変わった。
治療が大きく変わったのではなく、意識が大きく変わった。
薄場先生と細谷先生も、本質的な部分では変わらないし、被るところも多い。
※独自の薬に対するこだわりは薄場先生の方が強いけど。
細谷先生に診てもらい、一言目に、
「皮膚は6週間で再生するから6週間掻かなければなおるよ」と言われた。
また、痒みが生まれるメカニズムをわざわざ図解して教えてくださった。
内容は省略するけど、要は
「ステロイドは、痒くなる前に塗る。掻いた後、塗っちゃダメ。逆に痒みを誘発するから。」
「内服薬は朝晩ちゃんと飲む。皮膚が完璧に治れば、脱ステロイドみたいな反応は起きない。」というもの。
それと、メンタルについても言及してくださった。
「アトピーの人は優しい人が多い。人ならストレスを加えられると反撃できないから、自傷行為として掻く。だから、ストレスを感じたら、呼吸を整えなさい。マインドフルネスが大切。」と。
「掻くことが無意識化してるので、意識しなさい。意識することで、掻くことを止める一歩になる。」
「相手を主語にして、責めてしまうようなyou言葉ではなく、私を主語にしたi言葉で人と話しさない。」
これだけだった。
そして、細谷先生の「6週間掻いてはいけない」という目標。
そのちょうど、6週間目が、自分の結婚式だった。
結婚式までの6週間のチャレンジ。
そこで、頑張ることにした。肌が良い状態で式に出ようと。
やったことは、上記の教えを意識しただけ。
薬も薄場医院で処方されたものを引き続き使っていた。
掻くことはあったが、意識すると、無意識に掻いていることを認識できた。そこで、掻くことを意識的に止めることができたのだ。
そしたら、3週間で、肌が見違えるように綺麗になった。
先生からも褒められて、「頭がいいから、理論教えただけで、良くなるなんて、さすがだね」と言われた。
薄場医院で教えていただいた知識もあったし、細谷先生もわかりやすかった!
大好きなお酒を我慢する
残り三週間。先生から酒を辞めるように言われる。
「結婚式で解禁していいから、一旦やめてみて」と言われる。
お酒は血流がよくなるから、痒みを誘発しやすいそうだ。
酒を止めれば、太らないし、皮膚もよくなるから頑張るかと、禁酒した。
ノンアルコールビールで、帰宅後の一杯を楽しむ演出をすることで、割と脳を騙すことができた。
ビールの目的がリラックスだとしたら、
「風呂上がり」×「冷たい缶」×「ビール味」という環境づくりで、自分の脳は錯覚させることができた。
明確な目標があったため、それほど苦しくなかった。それ以来、付き合いがなければ家で晩酌することがなくなった。
これ以上必要のない血は流したくないんだ!結婚式当日!
さて、そんなこんなで、結婚式の肌のコンデションは最高だった。
しっかりと肌のメンテナンスができて、かゆみもなかった。
オーダーメイドした新しいシャツが血で染まることもなければ、
式の中で、ポリポリ掻くことも無かった。
皮膚が六週間で生まれ変わり、僕も生まれ変わったのだ!!
7歳でアトピーを発症して以来、こんなに肌が良かった夏はなかった。
結婚式が終わり、その後先生へ報告
そして昨日、細谷先生のところに報告に行った。
すると、「あなた、すごいじゃない。肌が綺麗になって!結婚式の写真見せて!イケメンじゃない!」と感動してくださった。
先生が、「この写真をたくさん部屋に飾りなさいね。初心忘れるべからずだから。環境が変わったり、忙しくなるとまた悪化することはあるから。」と言われた。
たしかに!!
油断大敵だ。
大いにありえる。
**完治ではなく、ほぼ完治なのだが、油断は禁物だ。
冬もまた肌が乾燥する。ここから注意が必要だ。
いや、戦いはこれからなんだ!!
しかし、自分のアトピーとの戦いは、長い年月がかかった。
治療に関しては、人の縁で素晴らしい先生に出会うことができた。
苦しい記憶はきっと薄れていくから、今回これを書いた。
痛みや、苦しみは、その最中が一番悶えるような不幸を味わう。
でも、乗り越えたり、その不幸がさると、どんどん過去のものになって、
無かったかのように普通の日常が始まる。
人の記憶とはうまいもので、
辛いことは消されるか、薄れて、残らないようになっている。
だから、前向きに生きていけるし、その方が生きやすいのだろう。
僕もまた、ぶり返すかもしれないけど。
治療する上で一番大切だと感じたこと
7歳から悩んだアトピー、
2016年1月に治すと決めて、
脱ステロイド→劇的悪化→薄場医院→劇的回復→低迷期→細谷皮膚科→完治
と辿り、2018年9月にようやく克服できたような気がする。
改めて、「治すぞ!」と決意して、
七転八倒した二年半だったような気がする。
世の中には、アトピーで苦しむ人が多い。
僕は医療の人間でもないから、偉そうなことは言えないんだけど、
やっぱり治すという意思が必要だと思った。
薄場医院でも、細谷皮膚科でも、ちゃんと病気のメカニズムと対処法をきちんと教育してくれた。
で、ある時、薄場の看護婦さんにちゃんと薬を塗っていないことを打ち明けたら、
「あんたが、治す気ないと、治らないからね。先生だって何年も見られないからね」と言われてハッとした。その半年後に先生はお亡くなりになった。
先生が治すのではなく、
「自分で治さないといけない。」
そのために、自分が変わらないといけない。
今日、細谷先生から言われたのは、
「アトピーも生活習慣病気。だからね、生活を変える!これが大切なのよ。」
本当にその通り。
僕も人材教育の仕事をしているので痛感する。
でも、なかなか習慣を変えられない。
肌のメンテナンスは大変なので、サボったりルーズになりがちだ。
そういう意味で、「六週間後に結婚式があるから、そこまで掻くな」というゴールがあったから変化できたのかなとも思う。
アトピーだけでなく、
良い習慣をたくさん身につけていき、幸せな人生を送りたいと思う。
アトピーは僕にどんなメリットを提供してくれたのか?
最後に、これを綴って締めたいと思う。
自分の人生を振り返って、アトピーが自分にくれたメリットとは何か?
それは、「僕が愛されることを確認するためだった」と思う。
僕は3人兄弟で長男だが、ちょうどアトピーを発症したのが、一番下の妹が生まれたタイミングとかぶる。
親は3人の育児の中で、大変忙しくなっていく時期だ。長男として母親独占権をどんどんと弟や妹に奪われていく中で、得策として考え出したのが、
このアトピーという発明だったのではないかと思う。
子供心に「寂しかった」「愛されたかった」「母親に甘えたかった」という気持ちがあったんだろう。でも、長男としてそういうことは言い出せなかったんじゃないかと思う。
でも、アトピーがあることで、僕のことを心配してくれて、向き合ってくれて、一緒に病院にいけた。大人になっても、事あるごとに心配をしてくれた。
アトピーは愛を感じさせてもらう大切なコミュニケーションだったようにも思える。だから、無意識にアトピーを選択していたのかもしれない。
今になってはそう解釈できるが、若かりし母親も辛かったと思う。
僕が八戸で治療をしているとき、隣に5歳の男の子と20代の若いお母さんがいた。
男の子は大泣きしていたが、その横にいたお母さんの不安な表情が忘れられなかった。
「ああ、僕の母親もこんな不安を抱えて、もしかしたら自責の念に駆られて、病院に来てたのかなー」と思うと泣けてきた。
薄場の看護婦さんにその話をしたら、笑いながら
「そうだよ、お母さんは悪くないよ。全部あんたが悪いんだからね(笑)」と軽快なテンポで返してくるから、二人で笑ってしまった。
親は、自分の子の病気は自分ごととして捉えてしまう。
僕の病気であり、母の病気でもあったということだ。
もしかしたら、僕のアトピーは、今後も発動するかもしれない。
でも、僕を守ってくれるサインということで、向き合っていけばいい。
改めて自分は一人ではないし、人を愛し、みんなから愛されていることを実感していきていくのも、この病気に対する向き合い方の一つだと感じるようになった。
そんな想いを振り返ってみて、
色々な人に感謝の気持ちが湧いてきた。
素晴らしい先生方や、両親や、一緒に働く理解あるメンバーや、
そして妻にありがとう。LOVE&PEACA !
まずは自分の身の回りから、愛ある家庭と家族をつくっていこうと改めて思う。
このような体験をシェアして、少しでも同じように悩んでいる人に勇気が与えられたら嬉しい。「痒いだけ」で片付けられる節もあるけど、当事者は、本当につらいんだよね。
最後に、これは僕の体験談なので、必ずしも同じ治療方法で治るとも思いませんし、おすすめしているわけではありません。
今回、僕の病気に対する捉え方や考え方を記録にしました。
医学的な観点でどうこう言われてもわかりませんし、僕の表記が正しくない可能性もあります。治療に関しては、ご自身が信頼する専門医に相談してください。
追記:2020年8月31日 子供が生まれたので、肌ケアに活かしています。