ルービックキューブと並行世界
先日泊まったAirbnbの寝室に無造作にルービックキューブが置かれていて、思わずその四角いプラスチックを手に取って実際にやってみたい衝動にかられた。
以前Eiko GoというYouTube番組で狩野英孝さんがルービックキューブに挑戦している動画を見て、こうやって揃えるのかと感動していたわたしは、気がつくとその小さなツルツルした塊を1時間近く手前や左右の方角に回転していた。
柴崎友香さんの 「あらゆることは今起こる」 という本に、並行世界という感覚のお話がでてくる。
世界が同時に存在していて、わたしたちは気づかないまま移動しているということが、誰かの不思議体験ではなく 自分にも起こる身近なこととして描かれている。
中学生の時に 西加奈子さんの「こうふく みどりの」と「こうふく あかの」 という本を読んだことを思い出した。異なる世界が書かれた2冊の本が、タイトルによって繋がり、それが同時に存在している世界にまよいこんでいる錯覚を起こす。
人は時間感覚を一時的に解除することができて、時間という一定感覚でxy軸を移動する縛りを取ると、過去も現在も無く同時に存在を重ねることができる。
逆をいえば、いくつかのタスクがあるとして、それらを繋げないと起動しないあるいはフリーズするシステムのように、わたしたちは面と面を繋げたりあるいは切ったりする紐のような存在を認識しているのではないかと思う。脳の構造がそうなっているのかわからないが、わたしが生まれてから現在までの時間の中で 'わたし' がここにいるのだ、と思えるような一人の人格を保持しているのは、紐という事象と事象を時系列で結びつける人間の認識・把握能力がひとつにあると思う。
紐をするすると引っ張って、あるいはマグネットみたいなものでくっついていた棒をバラバラとはずしていくと、たちまち物事の順序は混乱し、もとに戻せなくなる。
ルービックキューブをまわしていると、すべての面の色をきれいに揃えたいと躍起になる。どうして揃えたいのだろう、揃わなくてもいいじゃないかと頭の片隅によぎるが、色が3つ4つ塊になってくると下腹部から達成感のような嬉しさがこみあげる。色を揃えるゲームなのだから、それを手に持っている以上はそのルールに参加するのが身体的に抗えない衝動なのかもしれない。あるいは別のルールを作成してその新ルールで遊んだり、なんとなく持ってるだけでも十分だと思える時期が来るのかもしれない。
だんだんと、ルービックキューブというゲームがまるで人生の比喩のように思えてくる。青の面を揃えようと必死になっていると、他面では赤白黄色が絡まっていく。自分が '意識して見ている' 面の後ろには必ず対になる面が存在していて、揃えているつもりが裏面ではこんがらがっている。
すべてのピースがあるときカチリとはまる日が来るのではないかと淡い希望を抱いていたが、そうではなく一面ずつ揃えていくというのが基本的なルールのようだ。
きっと一面ずつ把握していくという方が、人間の構造把握能力と相性が良いのだろうか。あるいはそのようにしか攻略できないのかもしれない。
ルービックキューブを1人の人生と捉えると、人は6面あるいはもっと多面的な並行世界を同時に生きているということができる。そこには面と面を繋げる紐はなく、面と面は同時に、互いに干渉しあう。
そうやってわたしの意識は白の面を歩こうとして、たまに赤の面へと並行移動しては白へと戻ってきたり、元の面を放棄して裏面に移動したりしているのかもしれない。