Vol.5 30代前半:親子のしがらみを超えて、独立への道を切り開く
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京都での修行を終え、家業の民宿に戻った私は、家業を手伝うことで母に恩返ししようと決意しました。ウェブサイトのリニューアルや厨房の改装も行い、全力でサポートしました。しかし、母との関係は次第に悪化していきました。母は長年の経験から来る自信とやり方を譲らず、私は未来に向けた新しい改善策を提案し続けました。双方の意見はしばしば対立し、次第にその溝は深まっていきました。
そんなある日、母が飼い犬を軽トラに縛り付けたままにしていたことに気づかず、そのまま漁港へ向かってしまいました。漁港に到着すると、血まみれの犬が目に入りました。胸が締め付けられるような痛みと後悔、怒りが一気に押し寄せ、私はその場に崩れ落ちました。それは、母が犬を無視した結果でしたが、私がその軽トラを動かしたという事実が、心の中で大きな罪悪感に変わりました。
その瞬間、母との関係が決定的に断絶しました。私の中ではすべてが崩れ去ったかのように感じました。これまで積み上げてきた努力が無駄になったという喪失感と、自分自身の未来が不確かで不安な気持ちが渦巻いていました。この出来事をきっかけに、母との関係は完全に壊れ、事業承継は失敗に終わりました。しかし、その絶望の中で、私は自らの道を切り開くしかないと覚悟を決めました。何があっても、自分の力で未来を築いていくという決意が、この瞬間に固まったのです。
独立と『露しぐれ』の始まり
家業を離れ、独立する道を模索していた私は、母が所有していた空き家を利用して飲食店を始めることにしました。それが『露しぐれ』です。名前に特別な意味はありませんが、辞書を引いて選んだこの言葉が、私にとって新たな挑戦を象徴するものとなりました。
『露しぐれ』は、淡路島の奥まった場所にあり、アクセスも悪い立地でした。資金もほとんどなく、改装はできる限り自分で行いました。尼崎まで軽トラで中古の冷蔵庫を買いに行き、姫路まで食器や機械を探しに行く日々。庭の整備中に熱中症で倒れたこともありましたが、その苦労が少しずつ私の中で自信へと変わっていきました。
独立するということは、これまでの親子関係や家業のしがらみから解放され、自分自身で未来を切り開くことを意味していました。すべてを自分の力で作り上げるということに、達成感を感じ始めたのです。
開業への挑戦
『露しぐれ』は、淡路島の小さな町、由良で開業しました。京都で学んだ会席料理を提供し、ランチは2980円、夜は6000円のコースを設定。少しずつお客様が増え、手応えを感じ始めましたが、そこには予想以上の困難が待っていました。
お客様の中には、料理そのものよりも「静かな場所でゆっくり食事を楽しむ」ために来る方が多く、料理に対する反応が乏しいと感じることがしばしばありました。さらに、無断キャンセルが相次ぎ、売上も安定しませんでした。平均して4時間の睡眠で店を回す日々が続きましたが、先が見えない状況に絶望感を抱いていました。
それでも、これは自分の挑戦だと信じ、何とか前に進もうとしていました。親子関係の失敗を乗り越え、自分の力で道を切り開くことができると信じ続けることで、私は何とか踏みとどまっていました。
悔しさをバネにして
そんな中で、最も悔しかった出来事は、高校時代の同級生たちからの見下しでした。彼らは私が淡路島に戻ってきたことを「都落ち」と揶揄し、店を遊び場にしようとする者までいました。彼らに見下されることが、私の心に強烈な悔しさを生みました。
その悔しさが、私の原動力となりました。「絶対に成功してやる」という強い決意が私の中に生まれ、それがすべての行動の支えになりました。周囲の目に負けないために、そして自分自身の力を証明するために、私はさらに努力を重ねました。
転機:鱧料理との出会い
転機は突然訪れました。母が民宿で提供していた鱧料理を試しに出してみたところ、淡路島外からのお客様が驚くほど喜んでくれました。あるお客様は「こんな美味しい料理は初めてだ」と言い、高価格であっても「むしろ安い」と言われました。この反応に驚きながらも、私は直感的に気づきました。「これだ」と。
その時、**労力と経営成績は必ずしも比例しない**という真理にたどり着きました。複雑な料理に時間をかけるよりも、素材を活かしたシンプルな料理が評価されることもある。この気づきが私の経営に対する考え方を大きく変えました。
すぐに会席料理をやめ、鱧とふぐの専門店にシフトしました。また、Googleの検索広告を活用し、「淡路島 はも料理」で検索した際に上位に表示されるように広告を出稿しました。これが成功への大きな一歩となり、店舗の知名度が急速に上がり、来店客も増え始めました。
独立への決断
その頃、私は結婚し、第一子の誕生がわかりました。子供の存在は、私にとって大きな意味を持ちました。これから生まれてくる子供の未来のために、そして家族を守るために、私は新しい挑戦を決意しました。
そんな時に見つけたのが、現在の「こゝちよ」の土台となる中古古民家の物件でした。何日も海沿いを歩きながら、何度も自問自答しました。「ここで新しい道を切り開くのか?」と。そして、最終的に挑戦することを決意しました。
この決断の背景には、親との関係や過去の失敗を乗り越え、自分自身の力で未来を作り出すという強い信念がありました。家族の支えが、私にさらに勇気を与えてくれたのです。
資金調達と「こゝちよ」の誕生
資金調達は非常に困難でした。手元にあった資金はわずか50万円。必要な総予算は3500万円でしたが、私は自ら事業計画書を作成し、日本政策金融公庫から3000万円の融資を得ることに成功しました。書類作成のスキルと情熱を込めたプレゼンテーションが功を奏し、ようやく資金調達が完了しました。
淡路島の若手建築家、平松君に設計を依頼し、古民家が少しずつレストランへと変わっていく様子を目の当たりにしました。工事が進むたびに、私の夢が形になっていくのを感じました。ある日、工事現場に立っていると、心地よい風が頬を撫でました。その瞬間、「ここちよ」という店名が自然と浮かびました。この風が、まるで新しい道のスタートを祝福しているかのように感じたのです。『こゝちよ』という名前には、私の新しい人生の章が始まるという強い思いが込められています。
新たなスタート
こうして、親子関係の困難や、数々の試練を乗り越えて、『こゝちよ』が誕生しました。自分自身の手で切り開いた道、そして家族や地域、そしてお客様との絆を感じながら、新たなスタートを切りました。
『こゝちよ』はただのレストランではありません。これは私が自分自身の未来を切り開き、過去の困難を乗り越えて得た成果であり、人生の新しい挑戦のシンボルです。家族の支え、そして自分の信念を元に、この場所を作り上げることができました。振り返ってみると、多くの苦労や挫折があったものの、それがあったからこそ、今の自分があるのだと感じています。
これからも、『こゝちよ』を通じて多くのお客様と出会い、料理を通じて笑顔と幸せを届けたいと思っています。そして、さらなる挑戦を恐れず、地域と共に歩んでいく覚悟です。親子の確執や経営の試練を超えて、この場所で得たすべてを大切にし、私が歩んだ道を次の世代に伝えていくことが、私のこれからの使命だと感じています。
これからも挑戦を続け、新しい未来を作り上げていく――それが『こゝちよ』であり、私自身の物語です。