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VOl.1 生い立ち:飲食業から遠ざかりたかった幼少期

私の歩んできた道のりを少しお話ししたいと思います。
(上の写真は8歳の頃の自分と妹)


• これまでの歩み

1979年、淡路島の小さな漁師町「由良」で生まれました。家業は民宿で、幼い頃から料理や接客に自然と触れる環境で育ちました。しかし、都会への憧れが強く、高校卒業後は大阪の大学に進学。卒業後の1年間は実家を手伝いながら、当時まだ浸透し始めたばかりの「ホームページ」を独学で作成しました。驚くことに、そのホームページで多くのお客様を呼び込み、「これからの時代はインターネットだ」と確信しました。

「もっとこの分野を学びたい」という思いから、その後、大阪でIT業界に身を置き、5年ほど働きましたが、20代後半に家業を継ぐ必要が出てきました。母親が高齢になり病気も増えてきたため、妹から実家をどうするか相談を受けたのがきっかけです。

当時の私は、IT業界でクライアントのシステムやウェブサイト制作に携わりながら、「自分はこのまま他人のプロモーションを手伝うだけでいいのか?自分が主人公にならなくていいのか?」と自問自答していました。加えて、自分は器用ではあるけれど、会社での出世には向いていないと感じていたこともあり、家業に戻る決断をしました。この時、料理業界に転身することはとても不安でしたが、同じように家業を継いだ友人の姿が後押しとなり、決意しました。その友人も今では広島で超有名な蕎麦屋を営んでいます。

その後、京都の寿司屋で修行を積みましたが、家業承継は思うようにはいかず、最終的には自分で独立する道を選ぶこととなります。

• 母子家庭での育ち、家業の民宿での経験が土台に

私の生い立ちは、決して裕福ではありませんでした。母は気性が激しく、いつも厳しい環境の中で育てられました。それも当然で、女手ひとつで私たち子供二人を育てなければならなかった母の必死さの表れだったのでしょう。今では、その苦労を深く理解できるようになりました。

母が家計を支えるために始めた民宿では、学校から帰ると皿洗いや魚の処理を手伝う日々。中学生の時には鱧に指を噛まれたこともあります(笑)。アルバイトを雇う余裕もなく、家族全員で協力して民宿を切り盛りしていました。

大量の皿洗いをこなす日々は、振り返ってみると「仕事を素早く処理する能力」の基礎を培ってくれたと思います。また、小さい頃からお客様に料理を運び、気前の良いお客様からチップをもらうこともありました。お小遣いがなかった私にとって、このチップは本当に嬉しいものでした。


実家の民宿。もう長いこと行ってないなぁ。
故郷の漁師町『由良』
由良の街中。前から気になってるんだけど、これは誰に向けての看板?野良犬は文字が読めないかと。まさか人?

• 「飲食業だけはやりたくない」と思っていた過去

母の背中には、いつも苦労が滲み出ていました。飲食業の大変さを目の当たりにしてきた私は、その厳しさをよく理解していました。生ゴミの臭いや重労働の厳しさから、「絶対にこんな仕事はしたくない」と心に決めていました。

その頃、木村拓哉主演の『あすなろ白書』が大人気で、都会にある華やかな世界に強く憧れていました。「こんな田舎には絶対に残りたくない!」という強い思いを抱き、将来はスーツを着て、都会でカッコよく仕事をするんだと夢見ていました。

しかし、今こうして飲食店を経営している自分を振り返ると、人生の皮肉さや運命のいたずらを感じずにはいられません。

まとめ

こうして振り返ってみると、飲食業に関わりたくないと思っていた幼少期から、今の自分がここまでたどり着いたことに、運命的な流れを感じます。母の背中を見て育ったことで、苦労と努力の大切さを学び、IT業界での経験を経て、自分自身が主人公として生きていく道を選びました。皮肉にも、かつて避けたかった飲食業が、今の自分にとって最も誇りに思える仕事となっています。この先も、挑戦を続けながら、さらに成長していくつもりです。

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