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胸が苦しくなる時
若い時は、自分の側からばかり物事を見て考えていた気がする。
結婚して、子どもを生んで(しかも、超個性的な子ども三人!)、いろんなびっくりするようなことが起きる子どもたちとの生活の中で、少しずついろんな方角から物事を見たり考えたりができるようになっていったのかもしれない。
まさに、育児は「育自」。
子育てが、子育ての悩みが、確実に私を育ててくれた。
子どもがきょうだい喧嘩をした時、どちらがどうなのか、一方だけを見ない。一方だけの(声が大きい方だけ)を信じないように。
子どもが友達と揉めたり喧嘩した時、子どもたちそれぞれの言い分、幼稚園や学校の先生側の見方、相手の親の考え方や思い……
どんな時にも、どちらにも言い分や理由や立場があったりする。
どちらにも言い分や理由や立場がある。
完全なる「白」完全なる「黒」というものは、ほとんどない。
物事には裏も表もある。
完全なる「善人」も完全なる「悪人」もいない。
誰もが「善」「悪」どちらも持っている。
人のある面だけを切り取って見て、「善」だの「悪」だの判断するのは無意味なのかもしれない。
誰の味方であるか、どちらの方角から物事を見るかで事実は大きく異なるということ。誰の言うことを信じるか、自分はなにを信頼の基準に置くかで、正義も悪もひっくり返る。
私のことを「悪」だと、嫌っている人が身内にいる。これってたぶん……きょうだい喧嘩の延長線上にある感じなのだろうな、なんてことに最近になって気づいた。
嫌われてるってわかっていながら相手を好きになるのは難しい。
「正義の剣」でぶった切られ続けるのは痛すぎてつらい。
でも、だからといって、こっちも同じように嫌ってぶった切ればいいとかいう問題じゃない。冷静に考えると、やっぱりあちら側からみたらこっちは「悪」になっちゃうよなぁと(私側の事情なんて知りたくもないだろうし)。
もっと若い時に、フラットに多面的に多方向から物事を見て考えることができれば良かった。そしたら、こんなに拗れてねじれて悲しいことになる前に、なんとかできたかもしれないのに。そんなことを時々思う。
だいぶ昔、私が大失恋して落ち込んで落ち込んで立ち直れなくなっていた時、竹内まりあの「元気を出して」を聴かせて励ましてくれた彼女の優しさに今でも感謝しているし、私はやっぱりどんなに嫌われていたとしても嫌うことはできない。でも、もうやっぱり仲良くはなれないなと思うと、胸が苦しくなる。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざがあるけれど、
坊主が憎くても袈裟までは憎まない。自分は、そうありたいと思う。
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