第36回國華賞〈國華展覧会図録賞〉染谷美穂・田辺昌子『サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展』図録(令和六年一~三月、千葉市美術館)
選評 大久保純一
鳥文斎栄之(宝暦六~文政一二年・一七五六~一八二九)は、勘定奉行まで出した旗本細田家の嫡男に生まれて家督を相続、御小納戸役として仕え布衣の着用も許されている。また、画技は奥絵師の狩野栄川院に学んでいる。それでいながら早くに職を辞して隠居し、浮世絵師として活躍するという異色の経歴を持つことで注目されてきた、浮世絵の歴史の上では、その前半の活躍期が画壇で圧倒的な人気を誇った歌麿の活動時期と重なっていながら、彼の艶冶な画風とは異なる気品漂う美人画風で歌麿に迫る人気を得た絵師として語られてきた。複数の弟子も擁し、彼らは今日栄之派あるいは細田派とも称されている。歌麿は寛政後期の美人画揃物「錦織歌麿形新模様」の詞書で他の美人画絵師を「この葉画師」などと繰り返し誹謗しているが、栄之の活躍に危機感を覚えたことも理由のひとつと考えられなくもない。寛政一〇年(一七九八)頃以降、錦絵制作から手を引いて肉筆画に専念するが、こうしたシフトは名声を確立した浮世絵師でしばしば見られるもので、いわゆる「吉原通い図巻」のように当時高い世評を得た主題の作品群も残している。
このように、浮世絵画壇で大きな位置を占めるとみなされてきた栄之であるが、なぜか国内においては個別の作品や主題研究を除けば、まとまった研究はなされてこなかった。国外に目を向けても、彼の画業全般を扱ったモノグラフとしては、一九七七年刊行のKlaus J. Brandt のカタログ・レゾネを見るのみである。展覧会に関しても同様で、少なくとも図録を作成したレベルにおいて栄之を主体にしたものの開催歴を評者は知らない。
そうした栄之研究の停滞に風穴を開ける企画が一月六日から三月三日にかけて開催された千葉市美術館の『鳥文斎栄之展』である。浮世絵に関して優れた展覧会を数多く開催してきた同館だが、今回の展示は、『鳥文斎栄之目録』(千葉市美術館、二〇二三年)の編纂など長年栄之研究に注力してきた同館学芸員の染谷美穂氏と、『鳥居清長』『溪斎英泉』などのすぐれた浮世絵展を開催してきた同館副館長(当時)田辺昌子氏の作品調査力と企画力が相まってなしえた成果である。
展示および図録の構成は、初期作品の章、歌麿と拮抗した寛政期の優品を集めた章、紅嫌い様式でまとめた章、そして栄之ならではの特色が示された美人画の章というように、たんに時代順による配列ではない工夫が凝らされ、栄之の錦絵美人画がいかなるものであったのかの明確なイメージを提示している。とくに華美な配色を避けた紅嫌いという手法の多主題への適用が栄之の作画上のひとつの特徴であることを提示したところは、この絵師の作品に対するイメージ形成を考える上で示唆的である。掲載された栄之の作品数は国内外の所蔵機関・所蔵家から借用した錦絵が約八十点、肉筆画が二十点余、他に版本、摺物などを加え、本展で初めて公開される作品も含む。点数自体はかならずしも多くはないが、どの所蔵機関でも歌麿らに比べれば栄之の収蔵点数は多くはなく、とくに海外に流出した割合も高いことなどを斟酌する必要がある。
さらに栄昌・栄里・栄水ら門人らの章、大田南畝らの文化人との交流の中で生み出された版本・摺物・肉筆画の章、さらに海外での栄之に関する文献を複数紹介する章も設けるというように、栄之とその一門の作品の作画活動がつかめるだけではなく、それを生み出した文化環境やグローバルな視野における近代以後の受容史も提示し、栄之および細田派に関する現在での学界での理解を総合的に提示するものとなっている。
如上の諸点で、本図録は今後の栄之およびその一門を研究する上で避けて通れない重要な基本文献となっていることは間違いない。なお、一般にはかならずしも知名度の高くはない絵師の展示でありながら、図録は増刷したという。展覧会および図録の質の高さが評価され、メディアや口コミ等を通じて広がったことが要因であろう。
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