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國華1546号要旨


【論文】

江戸後期における蒔絵表現の諸相

―飯塚桃葉作「百草蒔絵薬箪笥」を中心に―

永田智世

 重要文化財「百草蒔絵薬箪笥」(以下「薬箪笥」と称する)は徳島藩主の蜂須賀家に伝来し、現在根津美術館で所蔵される。銘により、明和8年(1771)11月に完成し、作者は蜂須賀家のお抱え蒔絵師である初代飯塚桃葉(?〜1790年)であることがわかる。本稿では、「薬箪笥」の特徴的な蒔絵意匠や豊富な内容品の情報をいかし、美術史だけでなく薬学史の観点も導入しながら制作背景を探り、作品の位置づけと江戸後期における蒔絵表現の様相の一端を明らかにすることを目的とする。
 「薬箪笥」の主たる装飾技法は研出蒔絵で、蓋裏には作品名称にあるように、100種の薬草と虫が、その名称と共にぎっしりと精緻に描かれている。その蒔絵は金のグラデーションで見せるだけでなく銀粉、また朱や緑の色漆を用いるなど、色彩も強く意識されている。数多くの内容品も残り、美術品としてはもちろん医療文化財としても貴重な作例である。
 薬学史の専門家の協力を得て「薬箪笥」を分析したところ、蓋裏の百草は本草家などの専門家の関与によって選りすぐられた本格的な本草図であること、内容品も古方派の特色を有しながらも、積極的に蘭方も導入した漢蘭折衷の、当時最新の医学的背景を有していることが確認できた。
 このような「薬箪笥」は、受容する側に本草学への見識や好奇心が想定されるが、当時の蜂須賀家の状況では藩主のために制作されたとは考えにくい。一方、日本国内の状況に目を転じると18世紀半ばは博物学的関心が高まりをみせており、中でも注目すべきは博物大名としても知られた高松藩主・松平頼恭(1711~71)である。頼恭が制作を命じた「衆芳画譜」、「写生画帖」は彩色の美しい植物図譜で、実物に限りなく近づけて絵画化し、各図にその名称のみを記している。「薬箪笥」の百草図にも同様の意識がうかがえることから、試みに頼恭図譜と「薬箪笥」蓋裏を比較してみると、「薬箪笥」の薬草は、頼恭の図譜に90%以上収載され、影響関係が推察される。
 ここで高松藩と徳島藩の関係を確認してみると、高松松平家は蜂須賀家の親類大名で、殊に明和6年(1769)の蜂須賀重喜から治昭への家督相続にあたっては、松平頼恭が重要な役割を果たしたことが記録からわかる。その頼恭は、明和8年に還暦を迎える。そこで御家存続の危機を救ってくれた頼恭の還暦祝いのために、蓋裏に本人が関心を持つであろう百草図が描かれた「薬箪笥」を、蜂須賀家が贈答品として制作した可能性を仮説として提示したい。「薬箪笥」が完成したのは11月だが、同年7月に頼恭が逝去したことによりとどめ置かれたとすれば、蜂須賀家に伝来したことも首肯できる。
 以上のことから「薬箪笥」は博物学的関心の高まった18世紀に誕生した、本草家や大名による美術品の作例のひとつと位置づけたい。19世紀にも博物図譜に影響を受けた作品が見られるが、本作はそのような蒔絵表現の先駆けと位置づけることができ、江戸後期の多彩な蒔絵意匠のひとつに博物学の影響もあることを印象づけるものである。

【作品解説】

鳥文斎栄之筆 座敷万歳図 

千葉県 国立歴史民俗博物館 絹本着色 1幅 縦35.0㎝ 横50.4㎝

大久保純一

 正月に家々を回って新年を祝う万歳は、新春の路上風景を描く浮世絵作品の中によく描き込まれるモチーフだが、江戸城や大名屋敷の中でも新年を祝していたことはあまり知られていない。この図はそうした高位の武家の屋敷で万歳が芸を見せている場面を描いた珍しい作例である。簾屏風越しにこの屋敷の姫君と見られる娘と取り巻きの女たちが万歳を見物している。
 簾屏風ににじり寄る腰元らの姿は簾屏風越しにハーフトーンで透かし見せる。一方、姫君は屏風から遠慮がちに距離をとっていることから、鮮やかな赤の振袖姿が簾で隠されることなく、画面右端にありながらも鑑賞者の目を惹きつけている。
 姫君らを精緻な筆遣いで描き出し、かつ上質な絵の具で丁寧に着彩するのに対して、太夫と才蔵は筆の抑揚を生かした水墨の筆法で描き出すという対照的な表現技法を用いており、狩野派の正統を学んだ栄之の画技の高い水準を誇示している。
 箱書きから下村観山旧蔵であることがわかる。

酒井抱一筆 飛雪白鷺図

東京都 山種美術館 絹本着色 1幅 縦141.0㎝ 横50.2㎝

河野元昭


 藤原定家が詠んだ「十二か月花鳥和歌」に取材する十二か月花鳥図が、狩野探幽や山本素軒、尾形光琳、尾形乾山などによって描かれてきた。この伝統を受け継いで、酒井抱一も十二か月花鳥図に筆を執ったが、定家詠和歌との関係を断ち切り、絵画としての視覚効果を高めて、新しい花鳥図ジャンルを開拓したのである。このような12図は12幅対や押絵貼屏風の形で伝えられてきた。現在6点ほどが知られており、大変人気のあった画題であったことがわかる。そのうちに、亀田綾瀬が漢詩の賛を加える5幅があるが、もちろん本来は12図のセットだったのだろう。これを代表して、11月に配される「飛雪白鷺図」を紹介することにした。これは中国画の折葦寒鷺という画題によったもので、漢的なイメージが強い。抱一の十二か月花鳥図では、漢的な図と和的な図がバランスよく配され、全体として和漢の混交イメージが生まれるように構成されている。抱一は儒学者にして、書家として人気の高かった亀田鵬斎と親しかったから、子の綾瀬とも相識だったのだろう。この七言絶句は綾瀬の自詠ではなく、張志龍というマイナーな詩人の作である。明代の文人が、好んで古典詩を画賛に用いたことが思い出される。

久米民十郎 支那の踊り

東京都 永青文庫 大正9年(1920) カンヴァス 油彩 縦76.0㎝ 横111.5㎝

五十殿利治

 頭から大きく後屈した中国服の女が、画面の中央にある円形の敷物で膝を折って座している。ほとんど隠された表情と、赤い裏地が見える黒い服は彼女のぎこちない姿勢と対照的な強い印象を与える。彼女の右腕が円を描くように、そして左腕が尖った指で後ろに突き出ているのはさらに威嚇的だ。近代洋画でも異例のこの面妖な絵画は、久米民十郎(1893-1923)によって描かれた。
 久米は学習院で学び、1914年にイギリスに渡った。裕福な家庭に生まれ、自宅に能の舞台があった久米は、能楽に興味を持っていた、詩人エズラ・パウンドと親しくなった。パウンドはロンドンのモダニズムの第一人者だった。久米は1918年に帰国し、ロンドンで出会ったデンマーク人ダンサーを描いた絵を、文展に出品した。
 この中国舞踊の絵画は、1920年5月に彼の最初の個展で展示された約30点の作品の1つだった。この個展のために、神智学協会東京ロッジの会員の一人である久米は、宣言書「霊媒派ニ就テ」を発表し、視覚を超えた霊的なコミュニケーションを求めると宣言した。これは、第1次世界大戦による精神の危機に瀕したロンドンでの久米の厳しい経験を反映している。

【研究資料】

日本に伝世した二体の新羅仏の雄作と新出の新羅仏について 
田邉三郎助

 本稿では3体の新羅仏をとりあげる。その1は対馬・海神神社の神体として伝わるもの、その2は五島列島・若松島の極楽寺の本尊、第3が今回はじめて紹介する1体である。各像の伝来についてはさだかにしえないが、前2者は昭和50年(1975)前後に重要文化財に指定されており、新出の像については、昭和18年(1943)2月20日付の『重要美術品等認定物件目録』に記載されている昭和10年(1935)5月10日認定の銅造如来形立像に当るものであることが確認できる。
 3体共通して、背面の頭部に円形の、体部に不整形に大きく型持に相当する孔を設け、全容を一瀉に鋳成するのは、新羅の中・小金銅仏に特徴的な仕口である。第1と第3の像は中型自体は頭部と体部に分けてつくられており、技法的にかなり近い関係にある。一方、第2の像は少しく異り、中型は頭部から体部一体で、これに鉄心がとおっている。しいていえば年代的に下ると考えてよいであろう。
 面貌・体貌ともに調和のとれた全体感を示す第1の像に対し、第2の像は第1の像の特徴を小ぶりにまとめ、総体に少しく沈んだ趣にみてとれる。第3の像は総体に簡明直截な表現で、さっそうとした覇気が感じられる。新出の像に一時代の初期の、清新の気を感じ、海神神社像に中期の安定し、円熟した趣を感じ、極楽寺像に後期の一種の暗さを感じとれることから、『三国史記』巻12「新羅本紀」の分類にならって、新出の像を新羅時代中代(654〜719)の中程に、対馬の像をその終りに近く、そして五島の像を下代(780〜935)に位置づけたい。この3体の像はいずれも個性味豊かに、しかもそれぞれの時期を代表するようなすぐれた作品である。

 


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