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中国&コロンビアで日本語教師をして得た教訓〜うつと挑戦〜


3回生時に発症したうつ病と格闘していた大学生のときの私の夢は、日本語教師をしながら世界を周るでした。



徳島県出身からの高知大学進学で、日本の田舎という狭い世界しか知らなかった私は、大学で出会った中国語の先生に大きな影響を受け、世界に飛び出す決意をしました。



うつの波を繰り返している状態で心配は尽きませんでしたが、「今、行かないと後悔する」という思いが勝り、強行突破しました。



そこには、
日本から遠く離れて今と全く違う環境に飛び込めば、うつの苦しみから逃れられるかもしれない
という気持ちもありました。




しかしながら、2年半(中国2年&コロンビア7ヶ月)を海外で過ごしてうつの苦しみから逃れられたかというと、そんなことはありませんでした。


どれだけ環境を変えても苦しみを生み出す自分自身が変わらない限り、この苦しみはどこまでもついて来ると悟りました。


もともとは30歳くらいまでいろんな国で日本語教師をして、帰国したら高校教師になろうと考えていましたが、わずか2か国、2年半(中国2年、コロンビア半年)で挫折しました。




こちらは中国、コロンビアそれぞれの日本語学校の生徒たちと撮ったもの↓↓

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海外で暮らしてみて、よかったこともたくさんあります。
1番は視野がぐーんと広がったこと。
日本で育んだ価値観だけが全てじゃないと実感し、生きる世界が広く大きくなりました。




また、一方で強く、図々しくなりました。
特に中国は強くないと生きていけない国でした。
強くなれたことでこの世界で生きることへの恐怖が少し減りました。




この記事は、うつ病と戦いながらの中国・コロンビアでの日本語教師生活、そこから学んだ様々な教訓のお話です。↓↓



文麗先生の言葉で海外行きを決意

大学3回生時、中国語の授業は文麗先生という、50代半ばの台湾人の先生だった。彼女は抽選が行われるほど人気の先生で、私は運よく当選しクラスに入ることができた。授業が特に洗練されているとか教え方が上手いとかいう訳ではなかった。それでも文麗先生からにじみ出る人間的魅力、オーラに他の学生同様私も強く惹かれていった。


先生は大学の講師をしながら中国の貧しい地域に学校を建てたり、恵まれない子どもに寄付したりというような活動をされていた。仏教にもキリスト教にも神様にも造詣の深い人だった。世界をまるごと受け入れたような優しさと私たちを導くリーダーシップを併せ持った人だった。


 


ある日の授業中、文麗先生が教壇でこんな話をされた。

「視野を広げるならここより大きな世界を見たほうがいい。中国語を学ぶなら台湾より中国大陸に行ったほうがいい。大きなものを見たほうがいい。30歳くらいまで勉強していても構わないから経験を積むことが大事」




 
それまで私は「大学を出たら就職するのが当たり前(高校教員を目指していた)」と思っていたのだが、先生の言葉を聞いてハッとした。目が覚めたような感じだ。大学を卒業してすぐに教師になっても人生経験は浅いし、大したことは教えられないと感じていた。


外国にも興味はあった。とにかく今のままじゃダメだと感じていて、自分を成長させたかった。そんなときに背中を押してくれる言葉だった。さらに30歳くらいまで勉強してもいいという考えは、大学を卒業したら何が何でも就職しなきゃと焦っていた私の心を楽にしてくれた。




私は文麗先生の言葉を信じてみようと思った。

「30歳くらいまで日本語教師として世界を周って経験を積み、帰国したら文麗先生のような視野の広い、大きな心で生徒を見守れる先生になろう」

という新たな夢を手にしたのだ。もともと履修していた教員養成課程に加え日本語教員養成課程も受講し始め、残りの大学生活を忙しく送った。



精神科主治医の反対と後押し


1か国目は先生の話を聞いて絶対行きたいと思った中国に決めた。日本の約25倍もあるスケールの大きさを肌で感じてみたかったし、中国語もきちんと勉強したいと思った。 



中国に行くと決めて動き出したものの、当時私はうつ病と診断されていて、ひどい憂鬱感で寮の布団から出られない、授業を無断で1ヶ月休む、食事がのどを通らず体重が10キロ近く減るなどの有り様だった。1番大変なときを脱したあとも軽いうつの波を繰り返していて、こんな状態で外国で生活なんてできるのかなという心配は当然出て来た。



だけど「今行かないと一生後悔する」と思った。今、海外を経験することは私の人生においてとても大切なことのように思えた。文麗先生の教えのとおり、縮こまった視野を広げ自分を成長させたかった。

心の裏側には、日本から遠く離れたら苦しい現実(家庭崩壊からのうつ発症)から逃げられるかもしれない、という気持ちもあった。さらに日本と全く異なる文化に飛び込むことで何かがいい方向に変わるのではないか、という漠然とした期待があった。




 
海外行きを話すと、精神科の主治医は苦虫を噛み潰したような顔をした。はじめは渋っていたが、私の本気を感じたらしく、
「本当はダメなんやけど」
と言いながら薬をたくさん出してくれた。

先生に感謝しつつ、私は薬をお守り代わりにスーツケースに入れた。出国前にはもう薬は止めていたが、もしも外国でうつが再発しても、薬があると思うことで安心できた。飲むかどうかに関係なく薬が手元にあることは、当時の私にとってとても大事なことだった。




 

うつ病を抱えながらいざ、中国へ

無事大学を卒業して半年後の2011年9月、中国安徽省合肥市(ちゅうごくあんきしょうごうひし)での暮らしが始まった。合肥には大学で出会った中国人の友人が住んでいたから心強いと思い、ここに決めた。




合肥(ごうひ)はこちら↓↓

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中国に初めて降り立ったとき、
「街が灰色や」
と思わず口にしていた。道には当たり前のようにゴミが落ちていた。昼間なのに空は霞がかかったようにどんよりとしていた。鼻をかんだらティッシュが黒く染まった。まだ発展途上にあった当時の中国は、工場からの煙や排気ガスやなんやかんやで環境問題に直面していたのだ。




合肥の空港&湖。いつも空がにごっていた。↓

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汗ばむ暑さの中、何か買ってみようと小さな商店に入りジュースをレジに持って行くと、なんと店員が携帯電話で通話しながらレジを打ち始めた。
「あははははー」
携帯片手に笑いながらレジを打つ店員。これには驚いた。まさに、異文化ではないか。驚きを通り越して、面白くなってきた。

中国人の友人にこのことを話すと、
「中国ではお客様は神様じゃないからねー」
と言われた。なるほど。日本みたいにお客様が神様なのはやり過ぎな気もするし、だからといって中国のこの対応はフランク過ぎる気がする。中間くらいが丁度いいのかもしれないと思った。



スーパーマーケットや道路は日本とは桁違いに大きかった。スーパーの棚にはどれを選べばいいか分からないほどたくさんの商品が並んでいたし、道路は徳島や高知では見たことのないほど広かった。とにかく見渡す景色がどこもかしこもでかかった。 



道路↓

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道行く人々は親切だった。道を聞けば丁寧に教えてくれたし、私が外国人と分かると目的地まで連れて行ってくれる人もいた。街には人があふれ、嗅ぎ慣れない調味料の独特の香りがただよい、車のクラクションが鳴り響き、活気あふれる安くてうまい屋台が軒を連ねていた。見るもの全てが新鮮で面白かった。



歩行街の様子↓

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服やカバンの修理をしてくれる屋台↓

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日本ではあまり見たことのなかった、 路上生活者もたくさんいた。
「お金を恵んでください」
と直接話し掛けられることも多かった。お金を入れてもらうカンカンを置いてじっと座っている人もいた。二胡のような楽器を演奏してその報酬に小銭をもらう人もいた。最初のうちは私も持っていた小銭を渡したりしていたが、路上生活者のあまりの多さに途方のなさを感じ、だんだんと無視するようになった。





中国生活をスムーズに進めるため、はじめの3ヶ月は中国語を学ぶべく、安徽大学の中国語クラスに申し込んだ。朝8時から正午までみっちり中国語の授業、そのあとは自由だった。




自己主張しないと生きていけない、という問題はすぐに現れた。そもそもの人口が多く、食堂での注文もタクシーを拾うのも待っていては永遠に順番が来ないのだ。並ぶという習慣がないため、食堂では注文口に学生が殺到。人の山をかき分け前に出て、大声で注文したいメニューを叫ばないと食事にありつけない。タクシーも争奪戦で、止まったと思ったらダッシュしないとすぐに他の人に取られてしまった。


要するに、強くないと生きていけなかった。はじめこそ戸惑ったけど、生活する上でだんだんと私自身も強く、図々しくなっていったと思う。 







堂々と生きるということ


中国語コースを受講し始めて3ヶ月が経とうという頃、そろそろ仕事をと思い日本語学校に面接に行った。学生数が100人くらいの小さな私立のスクールだった。面接官は30代の日本人男性で、フィリピン人の奥さんと1歳の娘さんを連れて日本から移住してきていた。面接といっても外国で日本人同士という連帯意識からか、始終なごやかな雰囲気だった。

「じゃあ、研修から始めましょう」
「よろしくお願いします」

あっさりと採用が決まった。




初授業。10代から50代までの中国人生徒十数人の前に立ち授業をしたのだが、不思議とあまり緊張しなかった。私はあがり症で悩んでいたため、「あれ?おかしいな」と思った。大学4回生時の教育実習では緊張しすぎて手や膝が震えていたのに。



先輩先生からも、
「堂々としていてよかったよ」
と褒められた。自分でも上手くできたと思ったから、それが自信へとつながった。上手くいった理由としては「自分は外国人」という解放感がプレッシャーを減らしてくれたからだと思った。私の体感としては、「ここは日本じゃない」と思うと3割増しくらい大胆になれた。





大胆になれたのは授業だけではない。たとえば日本では穿いたことのない短い丈のショートパンツとサングラスを身に着け街を闊歩してみた。すごく自由な気持ちになれた。のちにできた中国人彼氏とカフェで人目をはばからずキスしてみた。恥ずかしかったけど1つ自分の殻を破れた気がした。普通は複数人で行く火鍋の店に1人きりで入り食事をしてみたり、習うのが恥ずかしかったダンス教室に通ったりしてみた。日本で同じようにできるか分からないけど、どこに行っても堂々と生きていたいと思った。外国人として暮らすことで堂々と生きる練習ができた。




こちらは日本語学校の風景。日本語を教えるだけでなくいろんなイベントがある。


写真は書道のイベント↓

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中国でうつ病再発


うつの症状が出始めたのは、1年を過ぎた頃だった。軽い憂鬱の波が、頻繁に行き来するようになったのだ。
「やばい」
お守り代わりに持っていたサインバルタ(抗うつ薬)とリーゼ(抗不安薬)を前に、私はしばらく飲むかどうか悩んだ。折角止めていた薬をまた飲み始めることに抵抗があった。うつの程度も軽いし、飲まなくてもいいのではないか。だけど万が一重症化してしまったら……。ここは日本じゃないしやっぱり不安だったから、大人しく飲むことにした。
 



うつの波を自覚して数日が経ったとき、ベッドから体が起き上がらなくなった。仕事に行かなくてはいけないのに動けない。休むしかないと思い日本語学校に電話を掛けた。だけど中国人の上司に、
「実はうつ病で……」
と言う勇気はなかった。恥ずかしかったし変な目で見られるのではないかと怖かった。
「ちょっと体調が悪いので休ませてください」
と連絡するだけに留めておいた。 




ボロアパートのベッドの上で1人うつの波と戦っていると、不安と恐怖にやられてしまいそうだった。しばらく再発していなかったことで安心していたのに、結局また繰り返している。中国で暮らしてだいぶ強くなったように感じていただけにショックだった。大学の終わり頃からは「病気の私も私、受け入れるぞ」と思っていたはずなのに、うつの苦しさを前にすると「やっぱり嫌だ、治れ、治れ、治れ」としか思えなかった。そして治ったら2度と再発してくれるなと思った。



自らの弱さと対面するのは辛かった。嫌なイメージばかりが頭の中をグルグル回り自分で自分を攻撃し、しまいには全人類が敵になって批判してくるという妄想に憑りつかれた。


「あかん、壊れる」


どれだけ辛くても、中国で精神科や心療内科に行こうとは思えなかった。日本から薬を持って来ていたし、体の病院に行ったときの対応が適当すぎたからというのもあるし、私の中国語が病状を説明するには乏しいという事情もあった。




窓を開けても相変わらず空は笑い方を忘れてしまった人のように、どんよりと曇っていた。日本で暮らしていたときは青空が見えるのなんて当たり前だと思っていたけど、私はここに来て初めて徳島や高知のカラッと晴れた紺碧の空とキラキラの陽気を愛しいと思った。あのあたたかい空の下を散歩したかった。




中国人の友達にうつを打ち明け寛解


1人でうつの苦しさに耐えることに限界が訪れ、私は意を決して中国人の親しい友達、露露(るる)に「実は、うつ病なの」と中国語で言ってみた。返ってきた反応は「……うつ病って何?」だった。



中国でもうつ病患者はたくさんいると聞いていたが、露露は知らないようだった。
それでも、彼女とやりとりしていると少し元気が出てきた。
少なくとも露露と喋っている間は、うつうつした気分がどこかに行っていてくれた。
1人じゃないと実感することで不安が減り、やたらと焦っていた気持ちが少し落ち着きを取り戻してきた。




露露はダンス教室で出会った、18歳のダンサーの卵だった。好奇心旺盛で外国人の私相手にも物怖じすることなく中国語でたくさん話し掛けてくれた。露露のおかげで私の中国語会話力はかなり伸びたと思う。常に自然体の彼女に私も魅かれた。私たちはすぐに仲良くなった。




露露は思ったことを率直に口に出した。運動神経の乏しい私のダンスを見て、
「ロボットみたい」
と大笑いした。日本から持ってきた美容パックをプレゼントすると、
「パックなんか使わない」
と突き返され、韓国料理をごちそうしたときも、
「これは食べたくない」
と嫌いなものはのけてしまった。一緒に屋台に苺を買いに行くと、
「高すぎる、向こうはもっと安かった」
と必ず値切った。(これは中国ではよくあるが)




はっきりきっぱりしているのだが、露露に人を傷付けようという意図が全くないことは言い方とか雰囲気で伝わってきた。彼女のさっぱりとした性格は一緒にいて気持ちよく、私は露露のことが大好きになった。
この少女と付き合う中で気を遣い過ぎないこと、いちいち傷付かないことを学んでいったと思う。ダンスはさっぱり上達しなかったが、露露という友人を得たことは私の人生における貴重な財産となった。



 


露露(右)と撮った1枚↓

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うつはゆっくりゆっくりと回復に向かっていった。




うつを抱えながらコロンビアへ

中国での生活がもうすぐ2年になるという頃、そろそろ国を変えてみようと思った。
アジア以外の国を見てみたいという気持ちが強くなっていた。


そこで、新しい国を求めて仕事を探し始めた。
インターネットでアジア以外の国の日本語教師募集を探し、見つけたのはアメリカとメキシコとコロンビアの日本語学校だった。
3校ともスカイプで面接を受け、結果、アメリカとコロンビアの日本語学校に合格することができた。



アメリカとコロンビア、どちらに行こうか迷ったが、今を逃せば地球の裏側を見る機会は2度とないかもしれないと思いコロンビアに行くことにした。スペイン語ができないという問題はあまり気にならなかった。治安の悪さやまだ内戦中ということは気には掛かったが、「日本も地震があるし、危ないのはどこも一緒」と開き直り、行くことに決めた。

たぶん中国で2年間生活して肝っ玉が大きくなったんだと思う。





2013年7月、エルドラド国際空港に到着した。

コロンビアで暮らすことになったのは、首都のボゴタだ。
ボゴタは標高が2640メートルもある。(富士山の8合目くらいの高さだ)
青空がきれいで、山に囲まれた街だ。
道も日本と同じくらい清潔だった。
空気は少し薄かったけど、すぐに慣れた。



ボゴタの風景↓↓

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四季がなく、7月にもかかわらず涼しい穏やかな気候だった。
帰国のときは2月だったのだが、そのときも変わらず涼しく過ごしやすい気候だった。

夏や冬がないというのは、私にとってはすごくありがたかった。
特に冬にうつが重くなる傾向にあったため、寒くならないのが嬉しかった。

コロンビア人は黒や白や褐色やいろんな肌の人がいるがアジア人は珍しいから、出掛けた先で、「日本人?中国人?韓国人?」とよく声を掛けられた。私は覚えたてのスペイン語で「日本人です」と答えた。

声を掛けてもらえるのが嬉しかった。



 



コロンビア生活のあれこれ


今回は中国のときと違ってスペイン語コースなどは受講せず、すぐに日本語学校での仕事を始めた。(2年間の就労ビザを取得していた)


日本語教師としての仕事は、中国のときよりずっと大変だった。
中国人と違い、コロンビア人の学生は漢字を知らない。だから「困ったら漢字を書けば何とかなる」という中国でのやり方は通用しなかった。

さらに私は中国語が多少できるのに対し、スペイン語はほとんどできない。日本語を日本語で教えることは難しかった。ジェスチャーを使い、英語を使い、絵を書き、日本語の上手な学生に助けてもらい、なんとかやっていた。

学生たちはみんな優しく、そんな私を受け入れてくれた。同僚にはもう1人日本人の先生がいて、彼女も何かと励まし、助けてくれた。




日本語学校の授業風景↓

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職員室でコロンビア人の同僚と↓

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住まいはホームステイで、学生の家に格安で住まわせてもらっていた。
全部で4つの家にお世話になった。
朝ご飯付きで、トウモロコシの粉で作ったパン(アレパという)やシリアルなどが出された。
どの家にもお手伝いさんがいて豊かな暮らしぶりだった。



ホームステイ先の家族↓

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だけど、1歩家の外に出ると路上生活者もいて、中国同様貧富の差の激しさがうかがえた。



まだ内戦をしていた(2年後に和平する)こともあり、治安が悪く、出掛けると道のあちこちに警察官が立っていた。

コロンビア人の校長先生から、「橋は絶対歩いて渡らないように。暗くなってからの公園もだめ。強盗がいるから。日本人は一目で外国人と分かるから特に気を付けて」とも言われていた。

頭から血を流した男性が倒れていたり、アメリカ人旅行者が刺されたというニュースが入ってきたり、治安の悪さは確かに感じられた。

きれいな青空に、陽気で優しい人たちなどの明るい面と、内戦・殺人・強盗等の暗い面が同居しているというのがコロンビアの率直な印象だった。




 


慣れられない文化の違いと体調不良


さて、優しい人たちに囲まれていたにも関わらず、数か月経っても私は強烈な文化の違いに慣れることができなかった。慣れられないという事実に、かなり困った。




慣れられなかった主なものはこちら↓↓

・暴走バス(通勤に使っていたのだが信じられないほど運転が荒い)
・コロンビア料理(おいしいが種類が少なく飽きる)
・ほっぺにキスの挨拶(初対面でも礼儀だからしなきゃいけない)
・スペイン語(できなくても何とかなるというのは甘かった)
・飲み会のときに踊るサルサ(男女ペアがスピード感のあるステップを繰り広げる情熱的なラテンダンス)


もしも旅行で来ているなら、
「わあ、日本と全然違う!おもしろーい」
で済んだかもしれないが、生活していくとなると話は別だった。




私は言葉ができさえすればと思い、毎日スペイン語を勉強し、日本から持参したカレーや味噌汁で自分を元気付け、休みの日には街に繰り出してブラブラ歩きをし、面白いものを探したりした。



それでも慣れることはできなかった。
地球の裏側を体験してみたいという好奇心だけで乗り切れるほど生活は単純ではなかった。

日本や中国には存在しなかった南米ならではの要素が、だんだんと心を圧迫してきた。
心と体のストレスが溜まっていってしまい、体調を崩しがちになった。



ストレスは熱や発疹となって表れた。
ホームステイ先のお父さんに病院に連れて行ってもらい、おしりに注射を打ったり寝込んだりした。授業も何度か休んでしまった。


うつ病も苦しいけど、熱や発疹も苦しい。
いろんな苦しみがあるものだなあと、熱で火照った頭で考えた。


それにしても自分はこんなに遠くまで来て、寝込んで迷惑をかけて、何をしているのだろうと思った。ホームステイ先のお父さんとお母さんに
「大丈夫?何がほしい?」と心配されるたびに申し訳ない気持ちになった。

冬がないとうつにならない?

不思議なことに、ひどいストレスを感じてはいたが、うつ病特有のゆううつ感や苦しさはあまり起こらなかった。おそらく、ボゴタに冬がないからではないかなと疑ってみた。


初めてうつ状態になったときが冬だったからか、関係ないのかは分からないが、私は寒くなるとうつが深刻になる傾向がある。(冬季うつなのかもしれない) 

冬のないボゴタでは、たまにごく小さなうつの波が行き来することはあったけど、中国にいたときほどではなかった。


となれば、南国に移住すれば、苦しいうつ病から解放されるのではないかと考えてみたが、「たとえうつにならなくても生活上のストレスや自身の問題を解決できなければ苦しいのに変わりない」と思い直した。



強盗に遭い帰国を決意


ボゴタに住み始めてから半年が過ぎ、体調の優れない日が続き、だんだんと帰国を考え始めた。
実は教師という仕事へのやりがいを失いつつあったし、慣れない食事にもいよいよ嫌気がさしていた。

何よりも体調を崩して、ホームステイ先と職場に何度も迷惑をかけている状況が辛かった。

さらにこのタイミングで仕事からの帰宅途中に強盗に遭い、お金、ノートパソコン、携帯電話を盗られるという事態になったことでいっそう帰国への思いを強め、2年の予定をわずか7ヶ月で帰国することになってしまった。


強盗に対してははじめこそ怒りを感じたが、コロンビアの不安定な国事情を思うと、「あの強盗は貧乏で仕事もなく、国や制度の助けを得ることもできないのかもしれない。内戦で家族を亡くしたのかもしれない。自分は日本という平和な国で育ったから強盗をしようなどと考えたことはないが、境遇が違えば自分だって分からないではないか」と考え直してから怒りは消えた。





うつ病女子が海外で日本語教師を経験して得た教訓


日本に帰る飛行機の中で、
もう海外を放浪するのはやめよう
と思った。


私は心のどこかで、どこかに苦しみのない世界があるかもしれないと子どもみたいなことを考えていた。



「苦しみを生み出す自分自身が変わらない限り、どこに行っても苦しいまま」


このことを学んだ。



2年半の月日を外国で過ごし、視野が広がったかと言われたらぐんと広がった。日本で育んだ価値観だけが全てじゃないと実感し、生きる世界が広く大きくなった。また自分自身が強く図々しくなれたことで、以前ほどビクビクしなくなったし生きる恐怖が少し減った。要するに生きやすくなった。





他にも2年半の外国暮らしで得た教訓は色々ある。
まとめると ↓↓

・苦しみはどこまでもついてくる。どれだけ遠くに行っても自分が変わらない限りついてくる
・海外生活は視野を広げ、自分を強くするのに役立つ
・「食」が合わないと死ぬ
・日本人として育んできた価値観が全てじゃない
・自己主張しないと存在していないことになる(特に中国)
・ほっぺにキスをする挨拶や飲み会でのダンスは慣れるまできつい
・冬季うつは冬のない国では再発しないかも
・自分が犯罪など犯さずにいられるのは安全で平和な国に生まれ育ったから。内戦していたり発展途上国で生まれたら自分だってどうなるか分からない


ちなみに生活までしなくても、海外旅行するだけでも視野の広がりや価値観の多様性は感じられるし、その後の人生において大きな価値を生み出すと思う。また、他の国にも行ってみたい。





うつが辛い人へ

うつで苦しいときは
何もできないもの。
しっかり休んで、
ゆっくり過ごして。
でも、やりたいことは
諦めないでくださいね。



それでは最後に、
中国とコロンビアで見た
1番きれいな景色を
紹介して
お別れしたいと思います。


中国の九塞溝(きゅうさいこう)↓↓

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コロンビアのクリスマスイルミネーション↓

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コキリ

いただいた恩は回していきます🌕感謝‼︎