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「100億稼ぐ男になる」住所も暮らしも転々と変わる日々から抜け出し、自由と成長を目指すまで


私たちトラストエージェントは、残置物撤去を事業としている会社です。一般の方に分かりやすくいうと「不用品回収」、平たく言えば「ゴミ屋さん」ですね。お困りの方が多く、需要の高い業界です。

主に企業様、特に不動産業や不動産に関連する士業の方と、互いに協力・連携しながら仕事をしています。お困りの方々にとってのパートナーでありたいと考えているので、撤去以外にも、依頼先を探すほどでもないような、ちょっとしたお手伝いをお引き受けすることもあります。

今回は私たちを知ってもらう一つのきっかけとして、代表の岩本が独立・創業するまでの道のりについて、語ってもらいました。


フラストレーションの塊だった小学生時代

――子どもの頃の、印象深い思い出はありますか。

思い出らしい思い出は無いですね。母子家庭で、母はパートに忙しく、ほとんど構ってもらえないまま育ちました。母も当時はまだ若く遊びたい盛りで料理、掃除、洗濯もやらされることがしばしばでした。経済的な余裕もありませんでした。公的支援も受けていましたが、わずかな収入でも時には打ち切られてしまうので常にギリギリの状態だったことを覚えています。

他の家が羨ましかったですし、母に構われたい気持ちも、お金の無さに追い詰められる気持ちもあって、ずっとイライラしてる子どもでした。「大人になって今の状態から抜け出すんだ」「成功してやるんだ」人生まだまだ生きてやるんだ」と、不満を行動の燃料にして生きていました。

小学校高学年の頃に生活が変わって、祖父母の元で生活するようになったんです。再婚家庭だったので、祖父とは血のつながりもありませんでしたが、一つ年上の叔父と僕を兄弟のように扱ってくれました。二人のことを「おとうさん」「おにいちゃん」と呼んで、一緒に過ごしていました。

僕の人生にとって重要な位置を占めるボクシング

ボクシングに出会ったのは、この頃です。一緒に通い始めた兄はついていけずに辞めてしまいましたが、僕はむしろ、自分よりもずっと強い人たちを見る中で「強くなりたい」という思いがふくらんでいきました。

ボクシングにのめりこんでいく中で、「自分さえ変われば何者でもなれるんだ」と実感できました。実力もついて、小学校を卒業する時には「世界チャンピオンになる!」と宣言していましたね。

大阪へ飛び出し、共感できる仲間に出会えた

――生活が変わってから更に中学校へ進学して、イライラも多少は解消されたのでしょうか。

いえ、中学校は中学校で、平穏とは程遠い状態で母親との仲は相変わらず悪いままでした。家にも学校にも居場所がなく、理解者もいなくて。学校へ行かないこともしょっちゅうでした。中学二年生の時に祖父母が離婚してからは、ますます家にいるのが嫌になってしまったんです。

それでとうとう、家を飛び出しました。大阪にいった「おとうさん」を追いかけて。

血のつながりもない「おとうさん」でしたが、この引っ越しを受け入れてくれたことで、僕の人生は大きく変わりました。引っ越し先には偶然、母子家庭育ちの、僕と似たりよったりな境遇の子どもたちがいて、結局おとうさんの家よりも友達の家で寝泊まりしてました。

しつけというか、教えてもらって当たり前のことを知らない子ども時代だったので、相手のことを考えるとか、嫌がることをしないとかもこの時の仲間たちから学びました。人付き合いの「当たり前」を学べる機会をくれたんです。

勉強が得意でなかった分、スポーツに賭けて頑張っているのも僕らの共通点でした。心の裏側には、「得意なスポーツでも認められなければ、ただのろくでなしになってしまう。何かやりたい、達成したい」というすがるような気持ちもあったと思います。それぞれの種目で全国大会へ、全国大会に行くような高校へ行くのだと励ましあっていました。

色々な不満が消えたわけでもなく、嫌な気持ちも抱えたままでしたが、仲間と呼べる相手がいることで、すごく助けられましたね。

ボクシングの名門で気が付いた「等身大の自分」

――高校では、いっそうボクシングに打ち込まれたと伺いました。

ボクシングの名門・興國高等学校に入学したんです。自分の実力に自信もあったので「日本チャンピオンもなれるだろう」「16~18歳でアマチュアの世界チャンピオンもいけるな」と思ってましたね。余裕シャクシャクで。

当時の自分は、完全に井の中の蛙でした。名門校のレベルはとてつもなくて、地獄のような練習に加えて、先輩にはまったく歯が立たずにボッコボコにされる毎日です。2年生には全国常連、3年生たちは高校1位を取っている、そんな人たちです。勝てるわけがなかったんですよね。

世界はこんなレベルなのに、俺は世界チャンピオンになれるのか。人生かけられるのか。

自分にとって、最初の大きな挫折でした。ただ、挫折を味わったことで、地に足をついた目標をつくれるようになりました。

日本で一番になることを頭に置きながら、まずは高校でレギュラーの席を取る。大阪で予選を勝ち抜く。大阪代表になる。道のりを考えられるようになったんです。最終的には国体で大阪ベスト4まで進むことができました。記憶に刻み込まれた、青春の3年間となりました。

インドで会った子どもの姿に一念発起。自由な自分であるために、独立という選択へ
 

――厳しい部活を引退してから、また環境の変化もあったかと思います。どんな学生生活でしたか?

監督の応援を受けてボクシングの推薦で龍谷大学へ進みましたが、ちゃらんぽらんで、毎日お酒をのんだり、ふらふらと遊んでいる毎日でした。ある時、読んだ本に影響を受けて旅をするようになったんです。広島でのヒッチハイクに始まり、同級生と東南アジアから巡るバックパック旅に行きました。この旅行がまた転機になりました。

正直、僕らはどこかで日本の方が進んでいるというような考えがあったんだと思います。1人10万円もあれば何とかなるだろうって思ってたし、インドで乗った下級階層向けの電車では英語を聞くだけでびっくりしました。

家族連れと相席したんですが、とても裕福層には見えないのに、子どもが親と英語で話して、英語でゲームしてたんです。日本ではありえないじゃないですか。当たり前に、僕たちが使えない英語を使いこなしていました。それを見て考えているうちに、「ああ、俺、このまま日本帰って就活したら人生終わるな」って思ったんです。

当たり前だと思っていた就活という選択が、単純すぎるように感じました。世界と日本でもこれだけ違うのに、まだもっと世界を変えられる自分になれるのに、今働く場所を一つに決めてしまうのは違うんじゃないか。もっと自由に、自由であることを目指してもいいんじゃないかと考えるようになりました。

働くことに真剣に向かい合う中でもう一つ考えたのは、お金を稼ぎたいということでした。子どもの頃のコンプレックスもあったんだと思います。お金がないことで、思考やマインドが追いつめられることを経験しているので、お金を稼ぐことで変わっていけるという確信がありました。

最終的な結論としては、100億稼ぐ男になりたい。独立するしかない、と。卒業してからも苦労はありましたけど、この時とことん考え抜いたことが今に繋がっています。

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