佐藤先生に教わったこと-#27
このnoteは、星功基が2003年〜2007年に慶應義塾大学佐藤雅彦研究室に在籍していたころに佐藤先生に教わったことを思い出しながら書いているものです。
「星さん、あなたはこの3年半、この佐藤研でとても成長しましたが、そのことについて追究しませんでしたね。」
2007年3月28日。
佐藤研さいごの全体会議で佐藤先生に言われた言葉です。
「そのこと」とは、銀閣寺のこと。
佐藤研の入研試験の第1問でも
佐藤研の最終発表でも答えた
自分が今まで生きてきた中で最も興味深いと思った現象、そのことです。
(銀閣寺については後述)
もともとSFCに入ったのは
銀閣寺を探究するためでしたが、
建築とメディアデザインを学べば、
坂研や佐藤研のプロジェクトで学べば、
そこにいれば、
到達するのではないか
と夢中になっているうちに、
気がつけば4年が経っていました。
本丸の銀閣寺を研究していなかったのです。
根っこにはいつも銀閣寺があったものの、
自信のなさからか、
いつの間にか
先生やプロジェクトに、
つまり権威に依拠して
過ごしていました。
もちろん貴重な体験はしたものの、
それは、「自分」では、自分の「最も」では、
なかったのです。
大学としての卒業式を終え、
ベネッセの入社式4日前、
SFC最後の日、
そのことを佐藤先生にずばりと
指摘されてしまいました。
なんて取り返しのつかない。
愕然と、半ば茫然としました。
そして辻堂に住み続けることにしました。
それから約3年。
毎週土曜にSFCのメディアセンターに通い、銀閣寺を自分なりに研究するようになりました。
あの銀閣寺の体験は、銀閣寺が様々なテキスト空間をリファレンスしていて、それを自分が感知して発生したものなのではないかという仮説のもと、まずはそのテキスト空間の研究から入りました。
そしてずっと読み込んでいたのが、
新古今和歌集です。
幽玄を探究しようと。
そこから日本文化に様々に派生し、
特に中西進先生の万葉集の研究や
白川静先生の漢字の研究に痺れました。
振り返ると、文字とことばに興味をもち、
二歩の活動につながっているのは
この日々のおかげです。
SFCへの残滓は落ち着き、気がつけば
単純に辻堂が好きになっていました。
そして時が経ち。
2010年12月2日。
gggでの「ユーフラテス展」初日。
仕事に行き詰まっていた自分は、
午前半休をとり、初日の1番に、
研究室の先輩たちの渾身と今を浴びたいと
扉を開けたのでした。
そこにいたのは受付の人を除くと、
佐藤先生、ただ一人。
挨拶・近況報告もそこそこに、
先生はこの展示の経緯、見どころ、
そして、
ベネッセを退職して今偕成社にいる先輩と
先生と内野さんとで
『もぐらバス』という絵本をつくり、
それがヒットしてその先輩は道が開けていること
などを話してくれました。
自分が行き詰まっていることは、
バレバレでした。
そして最後にこう言われたのです。
「星さん、ベネッセに佐藤研をつくってください。」
*
2019年7月にベネッセを退職しました。
ベネッセに佐藤研をつくることはかないませんでしたが、2020年、コロナ禍の中で、オンラインではありますが、SFC生たちとの表現のサブゼミを開くことができました。
佐藤先生に教わったことを、現役のSFC生たちに、引き続き、伝えていきたいと思っています。
*
最後に、銀閣寺について、記述させてください。
ーーーーー
佐藤研の入研試験は、クリエイティブ試験と数学・物理の問題で構成されていた。
その第1問が、次のような問題だった。人生を変えた1問だ。
「あなたが今まで生きてきた中で、もっとも面白いと思った現象を書きなさい。」
衝撃を受けた。
それまでに受けてきた紙のテストにおいて、
「あなたが!」
しかも、「今まで生きてきた中で!」
なんて問われたことがなかったのだ。
それまでに受けてきた紙のテストで問われてきたのは、例えば、「この式の答えは何か」、「筆者の考えを書きなさい」など自分の外側にある問題への正解ばかりだった。
そういう問題に慣れ切ってしまっていた自分にとって「今まで生きてきた中で、もっとも」という問いは、おそろしかった。
嘘いつわりはかけない。自分の「本当」をぶつけなければいけない。
そこまで問われるんだったら、しかたがない。今まで誰にも言えなかった、あれを書くしかない。SFCに入学した理由でもあるあれだ。
そして、解答用紙に銀閣寺のことを書いた。
つたない文章で。でも一生懸命に。
------------------
15歳のときに見た銀閣寺。
おばあちゃんたちの京都旅行に荷物持ちとして帯同したときに、
ふいに出会ってしまったとんでもない風景のこと。
しとしととした雨がふる京都。
少し肌寒い3月も終わりの頃。
春休みの時期なこともあり、銀閣寺は観光客で賑わっていた。
カクカクと何度も折り返す高めの生垣の道。
迷路みたいで少し楽しい。
そして、そこを抜けると、それは現れた。
銀閣だ。
そしてそのすぐそばを
砂でできた富士山のような向月台がどんと構え、
銀沙灘の砂の海がすうっと広がっていた。
砂の海と対照的な水の池がそれらを優しくまとめ、
えも言えぬ心地よさを醸し出していた。
人間によってつくられた世界が、
自然の中に、そして自然と合わさって、
ありありと存在している。
美しい。なんだ、これは。
背後の小高い山の参拝コースを歩いたのち、
その時期ちょうど特別拝観をしていた東求堂に
ガイドの方に案内されて入ることになった。
東求堂は、4畳半。
社会の教科書に写真付きでよく出てくる違い棚のある書院造りだが、
同時に茶室でもある。
茶室でもあるため、東求堂を囲む小さな廊下には、
主人が湯を焚いている間に客人が待っている腰掛がある。
その腰掛に座った。
目の前に広がる風景。
背景には東山連峰。青く淡い山の稜線が美しい。
その山々の手前に渋く落ち着いた銀閣。
銀閣の手前右手にグレーの砂の向月台と銀沙灘の海。
雨が降っているため、
東求堂と銀沙灘の海の間には、観光客の傘が連なっているが、
さらに手前にある美しい松のシルエットが重なり、
うまく意識を流してくれていた。
そのとき、不思議なことが起こった。
曇天の天気が突然、夜になった。
星が瞬きそうな透き通った夜空。でも星は見えない。
そのかわり、
銀閣から左上方向、東山連峰の上、ここにしかありえないという位置に、
なんと満月が表れた。
そして手前に流れていたはずの観光客の傘たちはすべていなくなり、
世界には自分ひとりだけになった。
背後から、ししおどしの、コーンという音が聞こえてくる。
その音にシンクロするように、自分の心の中に湖面が表れ、静かな波紋が広がった。
コーン………コーン………
月が心の湖面で揺らめいている。
波が寄せては返すように、涙が自然と流れてきた。
なんて美しい世界。
これがあの混乱の時代につくられたなんて。
いや、むしろこれほどの美しい世界がなければ、
精神を保てなかったに違いない。
そのように直観的に理解された。
辛く悲しい人の心を想った。
美しい波がすべてを癒してくれた。
ふっと覚めると、案内の人に急いでくださいと呼ばれた。
時間にして5分くらいのことだったと思うが、
自分には1時間以上そこにいたような気がした。
もっとここにいたいと思った。
しかし、もうその景色は見えなくなっていた。
周囲には、観光客がきちんと存在していた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?