佐藤先生に教わったこと-#28
このnoteは、星功基が2003年〜2007年に慶應義塾大学佐藤雅彦研究室に在籍していたころに佐藤先生に教わったことを思い出しながら書いているものです。
久しぶりの更新です。
今日は『イメージの読み書き』のプロジェクトを行っていたときに、教えてもらった2つのことを書きます。
それがいいかどうかの判断のしかた
『イメージの読み書き』では、なかなかOKがでるものをつくることができず、もがき苦しんでいました。ときには、3つ出したときに全ボツになったときも。そのときにこう言われました。
「星さん、出す前に自分OKはどうやって出していますか。」
「自分OKとはなにか、そのひとつの基準のつくり方を教えますね。」
「まず、アイデアを実際につくって、プリントアウトして、トンボにしたがってカッターで切るところまでやったとしますよね。そのあと、です。」
「それを、研究室の机の上に、ぽっと置いてみてください。そして、一晩寝かしてしまうのです。」
「翌朝なのか、次に研究室にきますよね。昨日それを置いたことをさも忘れたかのように振る舞うことがポイントです。」
「そうすると当然机の上には、昨日おいた自分のアイデアが表現された紙が置いてあるはずです。」
「そのときに、忘れていたかように振る舞ったとしても、その紙に目がいきますでしょうか。あれ、あれはなんだ、と。」
「興味が惹かれるでしょうか。何か気になるぞと、脳がざわつくでしょうか。なにか妙だな、と。」
「それがまず自分OKの第1ステップです。自分ですらも目がいかない表現は、自分OKではありません。」
「続いて、第2ステップです。試しに、それをゴミ箱に捨てようと試みてください。せっかく作った、そのものを、です。」
「普通は、捨てられませんよね。でも、捨てようと試みてください。せっかくとかという気持ちはいったん排除して。」
「そのとき、自分の中で捨てられない、作者の気持ちとは別にして、いち視聴者・観客の気持ちとして、ああ、これは願わくば明日もみたい。惹かれるこれは、なんなのかわからない。願わくば、またみて、この表現を味わいたい。」
「そういう思いが浮かんでくるでしょうか。実は、この、明日もみたい表現であることのチェックが、広く一般に対しても、ああ、知ってる知ってる、もしくはわかったわかった、とさっと表現が消費されないための方法でもあるのです。」
「消費に抗うことは、表現において、とても大切な態度です。」
「まず、無造作にある表現に自分でも目がいってしまうか。そしてそれを明日もみたいか。むしろみれないと困るか。この2つです。」
「次からは、この作業をしてから、提出してみてください。」
おしいボツの扱い
上記のようなことを経て、ようやく佐藤先生OKも出るものがポツポツ出せるようになりました。
そうして、研究室全体でのstudy数もたまってきたころ、本に掲載していく段取りになったときの会議にて。
OKも出ていた、ある2つの表現が掲載からはボツになってしまいました。
それは、全体が出そろったときに、本としての作品全体のトーン、ページネーション、文脈、編集をしていったときに、それがどこに入ると効果的か、あったほうがいいのか否か、そういう総合判断でのボツでした。それ単体としては、「イメージの読み書き」としてはよくても、です。そのときに言われた言葉です。
「星さん、今回、この2つはボツになりましたが、自分の中ではボツにせず、もっておくといいですよ。」
「この文脈にははまらなくても、いつかはまる文脈が現れるかもしれません。そのときは本やグラフィックという形ですらないかもしれませんが、この表現を生み出すときに星さんの頭の中でたどった道筋、掴んだ感覚は、本当のはずです。その本当が頼りになって、違う文脈で、あ、これはどこかで感じたことがある、考えたことがある感覚だぞ、という局面が現れるかもしれません。」
「それは、来年かもしれませんし、10年後かも、もしかしたら30年後かもしれません。そのときは、突然きます。この場合は、つくるというより、向こうからくる感覚です。文脈が。」
「そのときに、さっと出せる準備をしておいてください。その準備としての、もっておく、です。」
「研究は、みがき、きわめる、と書きます。こういうボツにもめげず、もちながら、みがき続ける。それが、けわしいですが、表現の研究です。」
あれから16年。以降まだこの2つの表現について、これ!という文脈はきていないですが、いまだにあの2つの感覚は忘れていませんし、ときを経て、自分の中で言語化されたり、相似形をなす表現のストックができたり、(これを磨いていると言っていいのか憚られますが)、自分なりに磨き続けています。
いつか、成仏させられるように、引き続き。
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