2010.12.31
昨夜未明に大量ゲロ事件が発生、
決断の朝を迎えた。
ニマさんとラクパさん、それにミンマの前で、私はとにかく気丈にふるまった。
もう熱も下がったし、すっかり調子も良くなった、と誰でも分かる嘘をついた。
明らかに顔色は良くないし、元気もなかった。
それでも、出された朝食をできるだけ詰め込み、最大限のアピールをした。
かくして、私の必死のプレゼンは通った。
「きょう一日、様子みてダメだったら、すぐに引き返すよ。」
ニマさんからワンチャンスのお言葉をもらい、晴れて先に進めることになった。
歩いてみると、案の定。
コンディションは過去最悪。
こんな体調で山歩きしたことはなかった。
息切れはひどい、頭はクラクラする、お腹も下しゴロゴロピー状態で、足腰に力が入らない。
もはや、自分は一体何をしているのか、何のためにこれほど苦しんでいるのかも、わからない。
ザックはミンマが持ってくれているので、両手にトレッキングポールを持っただけの身軽な状態だったが、それでも辛かった。
本来なら、ナムチェバザールの東山腹の先、鞍部に出た後の水平道からの眺めは、ドゥード・コシが右下深くに見下ろせ、対岸奥深くにはタムセルク、カンテガ、アマ・ダブラム、ローツェ、そしてエベレストが次々と眼前に現われる絶景ポイントだ。
でも、このときは景色を楽しむ余裕は全くなかった。
生まれて初めてキジ打ちもした。
草むらに隠れるといっても、それほど隠れる場所もなかったため、上半身は丸見えの状態で、
した。
街道を歩く女性と目が合ったけど、もはや、恥ずかしいとか考えれるレベルではなかった。
肝心のお尻から出てきたのは、ブツではなく、シャーシャーの水だった。
半ば脱水症状になりかけながらも、私はなんとか次の集落までたどり着いた。
見るに見かねたラクパさんが、休めと言ってきたので遠慮せず2時間ほど横になった。
多少楽になったので、再び出発。
5歩進んでは、息を整え、また5歩進んでは息を整え、を繰り返し。
標高3,867mのタンボチェへ。
タンボチェは、この地方最大のゴンパ(チベット仏教寺院)がある神聖な場所である。
この寺院は、1916年にセンゲ・ラマの長兄である、カルマによって建てられたが、漏電により焼失したため、現在の寺院は1995年に再建された建物である。
ここは特にシェルパの人々にとって中心的な寺院で、尊敬を集める活仏(生き仏)がいる。
かの、植村直己氏もここで祈りを捧げ、エベレストに登頂したとのこと。
そんな場所にやってきたにも関わらず、私はゴンパに目もくれず一心不乱に先を目指した。
いや、目に入らないぐらいギリギリの状態だったというのが正解だろう。
とにかく具合が悪かった・・・。
そこから30分程度降りたところにディボチェという集落があり、ここが本日の宿泊地。
標高は3,820m。
足が絡まりながら、なんとかたどり着いた。
ようやく本日の長い長い行程が終わったのだ。
こんなに辛い山行は正直初めてだった。
生き地獄だった。
ニマさんは呆れ顔。
どうだい!?これがサムライだ!
武士道だ!
鼻息荒くラクパさんを見る。
そんな私の顔は、顔面蒼白で生気全部吸い取られた、まさに死に体・・・。
すべてを出し切って、全く動けなくなったので早々にシュラフに包まる。
ふと、思い返すと今日は大晦日。
日本にいたら、今頃どんな過ごし方をしていただろうか。
年越しソバを食べて、ぬくぬくと年末の特番を見て、無駄に2010年に起こった出来事を、脳みその中で並べ直していただろうか。
それとも、携帯電話を覗き込みながら、ニューイヤーメールの内容をぼんやり考えていただろうか。
いずれにせよ、今自分は、そんな日常とかけ離れた場所で、年を越そうとしている。
紅白もゆく年くる年もない。
お尻の穴が緩みっぱなしという最悪のコンディションだが、私は今、まぎれもなく未知なる冒険の世界に生きているのだ。
日本のみんな、正月特番を見ながら、みかんでも食って待っていてくれ。
私は必ずヒマラヤの頂に立ってみせる。
日本のみんなにも幸多き新年となりますように。
真っ暗な部屋で、微かに確認できる薄白い吐息が、私を深い眠りへと誘った。
つづく