原点
私の両親は、子どもの頃から週末になると、私たち兄妹を山登りに連れて行った。
両親は山登りが特別好きというわけではなかったが、団塊の世代に起こった一大登山ブームの中で、外で遊ぶなら山でしょと、当たり前のように登山を楽しんでいた。
私たち家族が頻繁に通った場所は、日高山系や大雪山系の山々である。
小学校低学年から「山を登る」というアクティビティは、私にとって小さな冒険だった。
冒険とは、日常生活とかけ離れた状況に身を置き、なんらかの目的のために危険な体験や、稀有な体験をすることである。
山登りは、まぎれもなく未知なる世界への挑戦だった。
だから、父から「明日山行くぞ」と言われると、胸の高鳴りが手足の先まで伝わってくるぐらい、ドキドキしたものだ。
早速頂上までのタクティクスを練り(テキトーに想像の地図を描き)、ギアを点検(自分にとっての宝物、当時はミニカー)。
その日は早めに就寝するものの、緊張と興奮でなかなか寝付けず、気付けば明け方。
いつもより早起きをして、おにぎりと水筒をザックに詰め込み、いざ出発。
日高の山々の中でもよく足を運んだのは、日高山系の剣山(標高1,205m)。
日高の主脈からは遠く、広大な十勝平野を見下ろす尾根の末端に位置するこの岩峰は、アイヌ語でエエンチエンヌプリ(とがった山)という。
頂上に本物のエクスカリバー(聖剣)を祭った信仰の山であり、ロールプレイングゲーム好きの冒険心をくすぐる山でもある。
標高はさほど高くないが、上まで登るとハシゴや固定ロープなども設置されており、一筋縄ではいかない、なかなか面白い登りを楽しめる。
途中、「母の胎内」という岩穴もあり、ちょっとした胎動体験もできる。
登山道から少し外れた岩場には、大正時代の古い鉄鎖も残されており、歴史が浅い北海道にしては、比較的古い登山の歴史を持つ山でもある。
子どもにとって、ロープやハシゴを使った山登りは「インディ・ジョーンズ」のような映画の世界の話で、しかも頂上には本物の剣が刺さっているものだからたまらない。
「その剣を抜いた者は勇者になれる」
父の言葉を真に受け、ドラクエ世代の私は興奮したものだ。
絶対に抜いてやろうと、毎回登りながら思っていた。
いざ抜こうとしても、もちろん抜けない。
まぁ、そんなに簡単に抜けたら聖剣じゃないし。
頂上でもう一つ大きなイベントが待っている、この剣山が特に好きだった。
他には、主に山菜取りで日高の山々に行っていた。
熊との遭遇に怯えながら、タラの芽や行者にんにくを取るこの山行も、宝物を探しに行くような冒険だ。
登山道ではない藪を漕ぎ、熊の気配を感じながら、目的の山菜を見つけた時の快感は、決して下界で味わうことができないものだった。
そして何より、山菜を取ることで親に褒められることが嬉しかった。
褒められると伸びるタイプなのだ。
採ったタラの芽は天ぷらで、行者にんにくは醤油漬けにして食べた。
一口噛んだ時に広がる自然の甘みは、この上ない贅沢だ。
山にいるときの両親を見ることも、私の楽しみのひとつだった。
父は本当に頼りがいがあって、かっこ良く見えた。
大学の研究職という肩書きからか、いつもは紺のブレザーか白衣姿だったが、山での父は頭にバンダナを巻き、いつもと違う服装に身を包み、大きなザックを背負い、腰には熊と戦うためのサバイバルナイフを携えていた。
いつも家族の先頭に立ち、どんな薮でも力強くグイグイ進む、なかなかの健脚だ。
そんな父は、さながらハリウッド映画から飛び出した冒険家のようであった。
私はあたかも父の編成した冒険隊の隊員のごとく、羨望の眼差しで夢中でその背中を追った。
一方、母はマイペースで登るふつうの主婦。
山に行っても全く普段と変わらなかった。
登るスピードもそれほど速くないので、私は内心、下界では圧倒的な強さを誇る母に勝ったつもりでいた。
まぁ、よくよく考えると、妹がまだ小さかったので、母はそのペースに合わせて登っていたのだけど。
そんな両親のコントラストを見ることができるのも、山の醍醐味であった。
夏の山登り以外に、毎年冬になるとスキー教室に通っていたので、冬も山にいることはごく当たり前のことだった。
私が通っていたのは、北海道の芽室市郊外にある芽室スキー場と、清水町にあった国設日勝スキー場(現在は営業終了し跡地になっている)。
特に日勝スキー場は、頻繁にリフトが止まる悪天候で有名なスキー場だったので、そのスキー教室も過酷だった。
ホワイトアウトの中、コブ斜面を滑らされたり、コースを外れ森林の中を埋まりながら滑らされたり、今では考えられないようなハードなメニューだった。
バックカントリーなんて、カッコよい言葉は知らなかったけれど、今考えたらバックカントリーのスキー教室みたいであった。
日勝では同世代の子どもたちが同じクラスだったので、みんなでつるんでわざとコースを外れ、パウダースノーの林間を埋まりながら滑ることが楽しくてしょうがなかった。
中でも、士幌のラーメン屋の息子で「ラーメン太郎」と私が勝手にあだ名をつけた男の子と仲良くなり、スキーが下手くそな彼が斜面から転げ落ちていく様を、腹を抱えて大笑いしていたものだ。
結局、気づけば私は幼少から小学校高学年まで、ほぼ毎年山と向き合って生活していたのだ。
したがって、大人になり山に帰ることは自然な成り行きだったのかもしれない。
山は、いつも私の身近にあった。