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「ボクと魔王とパン屋さん」


「パンと人生って似てると思うんだよね」

 昔、夫に向かって言ったそんな言葉を思い出していた。私たちがまだ若く、パン作りの腕もずっと未熟だった頃の話だ。テネルでは唯一のパン屋なのでお客は来てくれていたし、みんな美味しいと言って買ってくれている。
それでも、時々失敗をした。生地は思うようにならないし、石窯はまだ使いこなせているとは言い難い。どうすれば理想的なパンが作れるのか、毎日二人で考えている最中に出た言葉だった。
小麦粉、卵、酵母。材料からこだわって、生地を練り上げる。それを丁寧にこねて、伸ばし、転がしながら形を作っていく。ただ優しくこねるだけではダメだ。時には叩いてやらないと、美味しく仕上げてやれない。まるで、人生みたいだ。

「言われてみれば、そうかもね」
 彼はうんうんと頷きながら、机の上の生地に目を落とす。二つ並んだ生地。同時に作りはじめ、出来上がったそれらのうち、私のものは夫のものに比べて固く、伸びがない。それだけ手をかけたつもりでも、少し加減が違うだけで理想から離れていってしまう。本当に、人生みたいだ。
「ほら、こんなになっちゃった」
 自嘲気味に生地を持ち上げる。ごめんね、うまく作ってあげられなくて。
「丁寧に生地を作るだけがパン作りじゃないさ」
 私の沈んだ調子を見かねてか、夫は大げさに抑揚をつけてこちらを見つめる。
「熱だよ。火加減も大事だ。人生もパンも、温かみとか、情熱がないとうまくいかないだろ」
 僕は焦がすのが怖くて上手にできない、とそこまで言って一呼吸を置き、微笑みかける。
「でも君は、パンを上手に焼くじゃないか」
 この人はいつもそうだ。不器用な私とは違って丁寧に、適切に言葉を選んで真っすぐに伝える。
「もう、馬鹿なこと言って」
 やっぱり不器用な私は、照れ隠しにそんなことしか言えない。僕は理屈とパンをこねるのは得意なのさ、と彼は笑ってコーヒーを淹れはじめた。

あの日のことが不意に頭に浮かんだ理由はわかっている。水不足解消後、旅に出ていたルカが、人を探しに昨日からテネルに戻ってきていた。実家に帰る前にわざわざ寄ってくれたのに、私はまたついやかましく言ってしまった。すぐに夫が話題を引き取ってフォローをしてくれたが、そのことが一晩中引っかかっていたせいだ。

「今日、ルカ君出立だったよな」
 ゆっくりな出立だな、夫は粉まみれの手をひらひらさせながら時計を見て呟いた。朝のパンの販売を終え、午後からの分の生地をこね終わった彼は、手を洗いに店の奥へとひっこんだ。
 この前の旅立ちの時、午前中にはうちに顔を出してくれた。もう正午を過ぎようとしている。昨日、私が余計なことを言ってしまったからだろうか。夫もルカに会えるのを楽しみにしているのに。久しく忘れていた、いつかの歪なパン生地が脳裏をよぎる。少しはマシになったと思っても、私は相変わらず不器用なままだ。
 いつまでも沈んでいても仕方がない。私は、夫の丁寧な生地を石窯の脇へ運ぶ。この石窯が今使えるのも、あの子のおかげだ。揺らめく火を見つめていると音が遠のいていくようで、私は動けないでいた。

「どうした、ぼうっとして。ルカ君が来てくれてるよ」
 突然肩を叩かれ、驚いて振り返る。夫が目配せをした先にはルカが立っていた。
「まだなんか用があるのかい?」
 驚きのあまり、思ってもいない言葉が口を突いて出る。そんな言い方をしたいわけじゃないのに。
「言ってごらん。力になってあげるよ?」
「とくにないです」
 慌てて付け加えたのは私らしくない言葉。ルカはそれに小さな、けれどもしっかりとした口調でこう返してきた。
「なんだって? もっと大きな声を出しなって言ってるだろ?」
 まあいいか、急には変われないもんだわね、と続けながら胸の内で考える。終わってしまいそうな会話を繋ごうとして、不器用な私がまた余計なことを言う。違う、旅立つこの子に必要なのはこんな言葉じゃないはずだ。
「また、顔、見せにおいでよ? おばさんに元気なところを見せておくれよ?」
 そこまで言ったところで、店の戸が開いた。ルカ、と呼ぶ声がする先に風変わりな三人組が立っていた。その声に、ルカの足元から黒い影が脇に伸びて、少し待てと応酬した
「友達を待たせちゃまずいな、気をつけてね」
 途切れた間を、夫が取り持つ。ルカは頷いて、踵を返す。私は思わず、手を伸ばしてしまう。触れた瞬間、驚いたように柔らかな髪が震えた。私が言うべき言葉はもう、あと一つしかない。
「いってらっしゃい」
 いってきます。ルカは照れたように言って、右手を上げた。

 ルカたちが店を去ってからしばらく、私は午後の分のパンを焼き終えようとしていた。店の奥から戻ってきた夫が隣に来て窯の様子を覗く。
「ルカには、あんなに友達ができていたんだね」
「そうだね、ルカ君自身、旅をして変わってきている気がするって言ってたね」
「思えば水不足を解決したり、旅に出たり、あの子もずっと成長してきていたんだね。私が、あの子を型にはめて見ていたんだ」
 それに、あんなにはっきりいってきますと言うようになった。最後のパンを窯から出しながら振り向くと、夫が先に焼き上げたパンをつまみ食いしていた。
「うん、美味しい」
「もう、馬鹿なことをして」
 呆れ気味に笑うと、夫は休憩中と書いた札を持って玄関へと歩いていく。
「ルカ君、君が最後に撫でた時、嬉しそうにしてたよ」
 店先から戻ってきた夫は、再びパンをいくつかトレーに取りはじめた。何をするつもりなのか、怪訝な顔をする私を見つめる。
「やっぱり、君は焼くのが上手だ」
 鼻の奥に、つんとしたものが走る。この人も、ちっとも変わっていない。カフェスペースの机にパンを置くと、夫はにやりとしながら手招きをする。
「さあ、コーヒーにしよう」

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