病窓に見る桜
座椅子の上に積んだ本を目の前の座卓に置く。同じようにして積まれた本の山に手が当たって、床に崩れ落ちた。それを拾って置きなおすと、今度は時計が転げ落ちる。腹の底から熱を帯びたため息があがってきて、それを天井に向けておおげさに吐き出した。
最近、何もかもこんな調子だ。歩けばゴミ箱を蹴飛ばし、書類は指をすり抜けて散らばり、水筒は忘れる。その度に身体の中心に熱が蓄積される。心臓とか、胃とか、そういうものがあるところより深い場所から、その熱が喉まであがってくる。
厄介なのは、これがいくら吐いても出ていかないことだ。どんなにおおげさに吐き出しても、アルコールで冷やしても、不貞寝を決め込んでも、いつの間にやら脳にこもって灼けそうになる。車の中で絶叫に乗せてみても、気づけば口の端から白煙が漏れる。
不調の原因は何なのか。不摂生に嫌疑を向けて、野菜を買い込んでみたが包丁を通すこともなく全て捨ててしまった。何時間眠ってみても脳内の霧は消えてくれない。栄養ドリンクを飲んでみても、トイレに行く回数が増えたばかりだった。
いったい、こんな時にはどうしていたんだっけ。こういう経験が今までになかったわけじゃない。ただ、それへの対処が思い出せないでいる。苛々と混濁する意識はやがて、娯楽を貪るように命令をした。
部屋を眺め渡す。私の部屋はまさに、私だけのための娯楽の宝庫だ。携帯のアドレス帳の充実より、本棚の拡充にいそしんできた。パソコンには友人の声より馴染みのある音楽がたくさん入っている。それこそインターネットの世界には造詣が深い。気を紛らわせる手段など、いくらでもあったのだ。
そう思って本棚から取り出してきていた本が今、いずれも数ページしか読まれずに座卓の上に積みあがっていく。書棚に並んだ小説はどれも、網膜のうえを滑っていくだけで頭に入ってこなかった。パソコンはとっくに電源を落としてしまっていた。
無音の部屋に、熱がこもっていく。こんな時、どうしていたっけ。
時計を拾おうとして、腹ばいになる。時計や公共料金の領収書が散らばった床にテレビのリモコンを見つけた。苦し紛れにテレビを点けると、映画がやっていた。名作として名高いその洋画は、私も何度も観たことがあった。ちょうど、お気に入りのシーンが近づいていると気が付いて、座椅子に座りなおした。
CMに入って、思い出したように拾い上げた時計を見ると、知らぬ間に随分経っていた。クライマックスが近いていた。幕引きに向けた演出のことを想像すると、自然に腕が粟立った。身体に走る、この特有の冷気。それが私の胸の奥まで冷やしていく。ああ、これだった。私に必要な栄養は。
同じ幕間に、私の目が積まれた本を捉えた。それらは、この映画に劣らぬ感動を、かつて私にもたらしてきていた者達だった。これらに目が向かなくなってきたこと、これらに没入出来なくなっていくこと。そんな想像が頭をよぎった時、重たいものが頭をとり巻いた。
ラストシーンを前にして、このところ新刊をチェックしていないことを思い出した。しばらくCDも買っていない。目の前の画面が不意に、白一色に転換する。それを見て脈絡もなく、毎年見る桜を楽しみに命を繋ぐ老人の話を思い出した。どんな話だったか思い出すのに夢中で、気が付くとクレジットが流れていた。
脈絡は、あった。見逃したラストシーンがその証拠だった。窓の外で枝の落ちる音がした。温い風が、胸の奥から喉へ抜けていった。