ガラスと春
体が大きく揺れ、その衝撃で目を覚ます。慌ててガラス窓の向こうに目をやると、目的の駅はまだ当分先だった。資格試験に向けて連日行った徹夜勉強が、私の意識を奪っていたらしい。うたた寝で体内にこもった熱が、首元からゆっくり抜けていく。蛍光灯が妙に黄色く感じて、目の渇きがそれに反応する。
ポケットにいつも忍ばせている目薬を取り出して上を向く。網棚の上の折り畳み傘を見ている瞳に雫が落とされる。右回り、左回りと目をくるくる回し、生じた清涼感で眼球を包もうとする。すごく間抜けな表情になっているだろうな、と気が付いて、誰かに見られていないかと左右を見回した。
車内はほとんど無人で、窓に平行に備えられた席は私専用の席になっていた。向かい合って座るタイプの席から二つほど頭の先が出ている他に、人影は見えなかった。私は滅多に電車を使うことがないが、一時間に一本しかないこの路線では、きっとこれが普段通りの景色なんだろう。
人目が無いことに気が付いた私の口元が綻ぶ。この後の駅もずっと無人駅ばかりで乗客も少ないだろう。都会の満員の地下鉄が嫌いで地方に流れてきた私にとってはとても快適な帰り道になった。
せっかく地上を走る電車だ。そう思って向かいの窓から外の景色を見る。そこではじめて、今日が快晴だったことに気がつく。澄んだ青が、新緑の山や野原に降り注ぎ、時々その中をピンクや紫やオレンジ色の花々が横切っていく。もっとよく見たいと思って、上半身をよじり片膝を座席に乗せ、窓枠に肘をついて外を眺める。特等席の完成だ。
こちら側には川が流れていた。そういえばこの線は川沿いに走っていたなと思い出す。川が行く先の山々を切り開いては蛇行し、水面は空と競り合うように青く輝き、時々飛沫をあげる。それらの景色の全てが、私へのご褒美のように感じられた。
行きがけには気がつかなかった景色が次々に私の前をスクロールしてゆく。山はその勾配を様々にし、迫ったり遠ざかったり、まるで足元の川と踊るように見えた。そのワルツの合間にポツポツと、集落が見えることがあった。急峻な地形に建てられた立派な日本家屋や、正体のわからない前衛的な建築物。踏切の坂道が下る脇を田畑が付いて歩く様や、営みをやめてしまった喫茶店。無数に過ぎてゆく、きっとほとんどの人にとっては何ということもない景色。その全てに美しい物語の面影を感じて、何とも言えない気分になってしまう。
この無数の美しさのほとんどに、試験会場に向かう私は気がつかなかった。それほど重要ではない資格試験でさえ、私をこれほどに美しさから遠ざけてしまう。これから先にはまだまだ様々な困難が待ち構えていて、それに慄くうちに、その美しさのほとんどに触れずに日々が過ぎていくのだろう。そのことが惜しくてたまらない。そんなことを、試験を終えるまでは考えていた。
でも今は違った。世の中にはこんなに、文字通り山ほど、美しいものがあふれている。もっとよく見たい、あれは何だろう。そんな気持ちごと、電車は容赦なく私を家路へと運んでいく。これはお手上げだ。いくら余裕があったって、全部は見ていられない。シャワーのように降り注ぐ景色で、私のバケツはあっという間に満たされてしまったのだった。
そしてきっと、こんな風に頬杖をついて車窓に憂う人というのも、向こう側から見たら面白い一場面かもしれない。存外簡単にドラマチックはやれるものだな、とガラス窓に映る私が不適に笑った。