滴を拭く
「あの人はラガーでないといけんかった」
普段はあまり馴染みのないそのラベルを手に取った時、頭をよぎったのは祖母のそんなセリフだった。きっとこの盆の間にも何度か聞くことになるだろう。六缶入りのセットを持ち、レジへと向かう。祖父母の家に着いたらまずは一本を祖父に供え、残りはすぐに冷やさないといけない。
もうずっと、お盆といえば繁忙期だった。もう何年も盆、暮れ、正月には小売り業の末端として店頭に立っていた。エアコンの効いた室内ではあったものの、波濤のように押し寄せる客の熱気にあてられ、燃え殻のようになるのが通例だった。忙しさとそれによるストレスでいつも胸は灼けていて、そういう意味では夏らしかったかもしれない。今回は、その職を辞して、迎えた最初の休暇としてのお盆だ。
こんな風に帰郷するのは久しぶりのことだ。帰郷といっても、私の実家ではなく、母の故郷だ。共働きだった両親にとって、幼い私を家に一日中置いておくには夏休みは長すぎたし、私も大人しくしている性質ではない。そして祖父母も、初孫である私を二ヶ月ほど手元に置いておけるのは願ってもないことだったらしい。双方の利害は一致していたのだ。かくして、私は夏の間、母の故郷に毎年預けられていた。
幸いなことに、都会育ちの癖に妙に野生児じみていた私は、片田舎での生活にすぐに馴染んだ。手に持った虫取り網を無双の鉾のように自慢げに振り回しながら、子供の足で届く範囲の山という山を征服し、虫たちにとっての恐怖として君臨することになった。なまじ都会で育ったせいで恐れを知らない私は、地元の子は決して近寄らないマムシの出るという藪まみれの山へも、どんどん突き進んでは祖父母をハラハラさせていた。
万虫恐怖の私も、祖父の前には形無しであった。生まれも育ちも田舎の祖父は、口数の少ない笑わない人だった。むやみやたらに網を振り回し、当たるを幸いに捕獲していた私とは違い、姿が見えないと思うと、大物をその手にしてひょっこり現れるのである。一日中追い回して届かなかったオニヤンマを諦めて帰ると、玄関で待っていた祖父の網にそのオニヤンマがいる、という具合だった。
また、祖父は私を連れてよく山に入った。愛車の白い日産サニーに乗せられ田舎道を走り、クヌギの木のある森を目指す。道中の会話の代わりのように、決まって金平糖を五粒、私の掌に乗せた。その頃の私の掌はそれでいっぱいになった。白、黄、緑、ピンク、色とりどりの金平糖をいつもどこかに隠し持っていて、落としてしまわないよう必死だった私は、それを出す瞬間をついぞ見ることはなかった。
森に着くと祖父は、すぐにクヌギの木に罠を仕掛けはじめる。十重二十重に私を巻くこの緑の中から一瞬でクヌギを見つけられることが不思議でたまらなかった。見える範囲全てのクヌギに罠を仕掛けると、次の森を目指す。そうして一晩の後、眠たい目を擦りながら同じ場所を巡る。大抵はコガネムシやスズメバチなどが澄ましているばかりだったが、時々幼心をくすぐるような、カブトムシ、ノコギリ、ミヤマなどがいて、その度に大喜びをしたものだった。
ただいまー、祖父母の家の敷居を跨ぎながら自然に出た私の言葉に対して、当たり前のようにおかえりと返ってくる。私の車が入ってきたのに気がついたのだろう、祖母は老いの現れた膝を苦にもせずに玄関先まで迎えに出てきていた。成人して久しい私も、社会の荒波を目の前にしている弟も、受験に一丸で向かっている叔母の家族も、都会に暮らす我が両親も、皆がこの家に揃うのは久しぶりのことで、これから先にもそう無いことだろう。きっとこの日を祖母は、遺影の中の祖父と待ち望んでいたのだ。
普段より早めの夕食の支度に、私も少し参加しようとしてみたが、料理の不得手な私は右往左往するばかりだった。祖母と母と叔母と、私よりずっと年下の従妹がキビキビ動く台所の中に私の居場所はなく、すごすごと食卓の方へさがる。昔から大きな座卓が居間に置いてあり、それを囲んで食事をする。それとは別に、カウンターの隣に机と椅子が置いてあり、普段はそこで祖父母が食事をしていたらしい。配膳の役にくらいは立とうと、そこに腰掛ける。
ソファーを占拠する、弟と受験を控える従弟は相変わらずバラエティー番組に夢中だ。それぞれの父親は食卓を挟んで何やら昨今の受験情勢の話をしている。カウンター越しに見える親子三代は時々軽い笑い声をあげながら、食事を作っていた。いい匂いがこちらに漂ってくる、今晩は料理好きな祖母のレパートリーの中でも一番の得意料理だ。
「あの人はラガーでないといけんかった」
不意に台所から祖母の声が聞こえた。確かにいつも飲んでたよね、と叔母の声が続く。早速聞くことになったな、と苦笑いしているとカウンター越しに丁度母と目が合った。母は軽く愛想笑いをして、料理に戻る。母らしくもない、わかりやすい愛想笑いだった。
祖父は口数の少ない笑わない人だった。そして、とても厳しい人だったそうだ。初孫の私や弟にはとても甘かったが、それでもその笑顔を目にした記憶はほとんど無かった。いわゆる昔の男というタイプで、それが母や叔母が都会に出ていった理由の一つであったことは否めなかった。
一方で、非常に外交的な人でもあったという。盆や正月とは日をずらして帰郷することがあり、その時に祖母から聞く祖父の姿は、私が知るものとも母や叔母から聞くものとも大きく違っていた。祖母は、酒の席で母や叔母と祖父の愚痴を話すこともあったが、その時の祖母の口調はどこか幼さを含んだ明るさがあった。
私は、そのどちらの姿も知ることはなかった。私がまだ幼少の域を出ない頃、祖父は脳を患い満足に話すことが出来なくなった。虫取りも、晩酌の酒も出来なくなった。そして病棟に寝起きするようになり、それからはあまり間を置かずにこの世を去った。通夜会場で見た、遺影の中の笑顔は、私の記憶の中には無いものだった。
夕食の時、騒ぐ私と弟を他所にいつも、この席で祖父はビールを飲んでいた。その手にはやはりラガーが握られていたのだろうか。私が虫取りをしている時、金平糖に目を奪われている時、祖母の夕食に夢中な時、あの笑顔が実はそばにあったのだろうか。
賑やかな居間を一人こっそり抜け出し、冷蔵庫からラガーを二本とりだして祖父の遺影のある和室へ向かう。着いてすぐに置いたビールはすっかり温くなってしまっていて、結露が缶を伝って木に染みを作っていた。酒好きな祖父は孫が出来たら、一緒に飲みたかっただろうと、いつか祖母が漏らしたことを思い出していた。祖父の遺影の脇の温くなったビールを、冷えたビールと入れ替えて、手に持った缶のプルトップを開けた。缶のぶつかるコツンという音を合図に一気にあおる。重たい苦みが喉を小気味良い音を立てて通ってゆく。半分ほど飲み干して、一旦缶を下ろす。向き直った、薄暮に沈んだ和室の床の間で、祖父は笑っていた。口の端から漏れた雫を舐めると、あの夏の味がした。