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門前の人にも橙を

 手袋すらつけていない指は、もうハンドルの感触を伝えない。突風でも吹けばあっという間にバランスを崩してしまうだろう。その拍子にチェーンが外れてしまえば、このかじかんだ手で直すことはもう不可能だ。
 寒さは夜の町を覆って、この世界から私の居場所を奪うように、肌の表面から少しずつ浸食し、心臓にまでその手を伸ばそうとしている。こんな小さな折り畳み式の自転車では、どこまで走ろうとも逃げ切れそうにない。
 半月は地上に弦を向けて、先程からずっと私の行く先を浮かんでいる。寒さが凝固したような冷たく鋭い輝きが、静かに私を見据える。まるで氷で出来たギロチンのようだ。澄んだ黒の天井にぴたりと留まって、自転車を押す私の手足が凍てつき、こうべが下がるその瞬間を、絶望に満ちた私の首を落とす瞬間を、しんと待っている。

 もういくら漕いできたのか。音も時間も凍ってしまったようなこんな暗い夜でも、私のこの澱みきった血でも、あの刃が首を過ぎる時には、宙に留まらずにやはり鮮やかに迸るのだろうか。どんな音がするのか。滴はどんな模様を描くだろう。
 マジックテープは固く、私の僅かなへそくりを守っている。幾度も通り過ぎたコンビニに暖を求めてしまえばすぐさま補導されそうな気がして、それくらいなら凍えた身体を震わせている方がマシだと言い聞かせる。
 本当に、何も持っていなかったんだな。そう、改めて自覚する。物も、頼るべき人も、何も。身体のあちこちが痛いのは寒さのせいばかりではない。痣が放っていた熱はとうに消え、鳩尾の奥の方ばかりがしきりに軋む。寝巻の上に羽織ったコートの内ポケットにボロボロの財布と僅かな現金。マフラーや耳当てなど当然なく、あとは自転車に刺さっている鍵と、履いている靴が、持っているものの全てだった。

 この通りも何度目だろう。あの人譲りの方向音痴が、私をこの町に留めようとする。身体の内側に流れる血が、私を螺旋状に縛り上げようとするイメージが、ずっと頭から離れない。それを振り払おうとして、もう何年も失敗ばかりを重ねている。
 昼間とは違う景色が、私をひたすら惑わせる。どこでもいい、ここではないどこかへ。そう思って飛び出したが、結局見慣れた景色の外側へ辿り着けないでいた。
 橋の中腹から見れば、隣町へ続く大橋のたもとにはパトカーが待機している。最近、子供を狙って川へ投げ込む事件が多発しているせいだろう。今の私には、その犯人よりもずっと邪魔な存在だ。冬の川底の冷たさを想像する。それでも、ここよりは暖かそうだな。そんな考えが浮かぶ自分に嫌気がする。

 踵を返して橋を戻っていると、向こうから背の高い影が歩いてくる。黒を凝縮したようなコート姿は、夜の闇からすら浮き出て見えた。都会の幹線道路を、車の一台すら通らない深夜。あの影が死神でも驚かないな、そう思いながらペダルを踏む。
 チェーンの回る音がやたらに響く。闇は心音すら大きく、空気中に放つ。その音が聞こえてしまえば、その背の高い影は私に躍りかかってくるのではないか、そんな想像が、僅か数秒の間に何度も繰り返される。同時に水底であぶくを上げる自分を想像し、それが遥か頭上の欄干の光を美しく歪ませる様子を思い浮かべる。それはそれで、と思うのに、心臓は痛いほど喉を突き上げる。
 影はただ、カツカツと、甲高い音を鳴らして通り過ぎ、後には心音だけが残された。安堵とも落胆ともつかない溜息が口から零れる。それはすぐに白い煙となって昇っていく。溜息をついたことを、上空のギロチンに告げ口しに行くかのように。

 深夜の町は押し黙ったまま。けれど家々の軒先では門松が静かに露をかぶっており、橙がその上に吊るされている。鮮やかなその実は闇に褪せ、南京錠のような重厚さでぶら下がっていた。それは寿がれるものとそうでないものを、鮮明に隔てているようだった。
 橙の内側に漂っているはずの、浮ついた空気を想像する。暖色の光の下で、交わされるやり取りを想像する。思い浮かべる光景のどこにも自分の姿はなく、架空の誰かが、どこか不自然な団欒をしている様子しか思い浮かべることができなかった。
 今度はその外側を想像する。闇は冷たい液体のように、隙間なく町を冷気で満たす。冷気は、衣服の合間から溢れた耳や指先の肌を、撫ぜるように満遍なく、浅く刺し、そこが赤く頼りなく腫れる。刺激を阻めなくなった皮膚はじんじんと痛むのに、世界はどこまでも静かで、夜は私など初めから存在しなかったような顔をしながら、ゆっくりと圧し潰そうとする。熟れ過ぎたトマトのようにぶよぶよになった皮膚では、その圧力にとても耐えられると思えない。逃げられもしないのに、その黒く巨大な掌の下で、もぞもぞと這い回る。いずれ弾けて潰れ、黒いアスファルトの染みとなる。こうした想像は、実によく捗る。捗ってしまうのだった。

 雨が降り始めた。
 瞬く間に出来上がっていく水たまりに、無数の雨粒が降り注ぎ、その水面を激しく揺らす。その振動よりも激しく、私の身体は震えて止まらなかった。
 靴は浸水し、濡れた足の感覚はとうに失せていた。ただ痛みだけがその輪郭を縁取っていたので、どうにか歩くことはできていた。足を下ろす度に、ボロのスニーカーから水が浸み出す音がする。それに合わせて刺すような痛みが走る。浸み出したのが、赤い液体でないことが不思議なほどの痛みが、一足毎に私を襲った。
 痛みは手の先まで覆って、もはや自転車のハンドルを握っていることすら覚束ない。このまま押して歩くことは困難に思えた。吐く息の白さや呻きも、降り注ぐ雨がかき消していく。これまでもこうした夜を幾つも、騙し騙し乗り越えてきたが、とうとうここが行き止まりなのかもしれない。どうせ越えられないのなら、はじめからなければ良かったのに。そう考えた時、頬から二筋、雨粒に加わった。
 それでも雨は降り止まない。勢いを増す雨が、薄いコートを突き破る前にと軒を探す。ボロ布のような少年が深夜に借りられる軒など、そうはない。家やマンションなど、人目につく場所は無論避けなければならない。それだけはわかっていた。疲労に鈍る足で進む私には、住宅街はオアシスのない砂漠のように広く感じられた。

 たどり着いた公園の入り口を抜けて、とにかく屋根を探した。遊具でもなんでもいい。できれば、屋根のついたベンチがあれば。そう考えながら見渡すが、目の届く範囲には見当たらなかった。
 フード付きのコートを持っていて良かった、と思った。そうでなければ、こうして見回している間にもひどく濡れてしまっていただろう。そのくらいの雨足になっていた。これからもフードのあるコートを選ぶようにしよう。そう考えかけて、思わず自嘲した。そんなことを考える意味などあるのか。これから、が私に訪れる保証などどこにもないのに。
 そんな思考も、すぐに寒さが奪い去ってゆく。身体を震わせながら、目の前に空いた広い空間に目を凝らした。わずかに届く街灯の光が、波打つ水面をチラつかせる。どうやら広い池があるようだった。その畔に沿って街灯が点々としていて、それで池の広さがよくわかった。その内の一つに照らされた、休憩所らしき影の方へと歩き出した。
 
 休憩所に見えたのはパーゴラというもので、屋根のように並べた板の間には隙間が空いており、そこに藤などを絡ませて藤棚にしたりするものだった。その下にベンチなどが置かれていることも多いが、ここにはない。その代わり、蔓性の植物が葉を繁らせており、隙間から雫が多少漏れ落ちてくるものの、かなり寒さは軽減された。
 奈落のように暗い池から漏れ出す冷気が私の全身を包む。それでもこの場所を離れて、凍てつき軋む関節で、あるかもわからない休憩所を探す気にはなれなかった。忘れていたが、そもそもこんな雨の夜には、そういった場所は争奪戦になる。やっとの思いでたどり着いたとしても、青いブルーシートと段ボールの家を前に立ち尽くすことになるに違いないことを、経験上わかっていた。むしろパーゴラで良かった、植っているのが藤でなくて良かった、そう言い聞かせる。このパーゴラという名前も、藤が冬には葉を落として雨宿りの役に立たないことも、経験上知っていた。
 俯きながら身体をさすって、ただ時間が過ぎるのを待つ。夜はいつも無闇に長い。あとどれくらいこうしていればこの夜は、この雨は、過ぎ去ってくれるだろうか。時計があれば、と考えかけたが、あればあったで秒針を見つめるばかりになっていただろうなと思い直す。気を紛らせる何かを探して、周囲を見た。

 パーゴラの脇に橙色の光を放つ街灯が立っている。その光が濡れた地面に落ちて、周囲を円形にぼうっと輝かせる。風に流れてきた雫が足元で跳ねるのを避けて、自転車の荷台に体育座りになった。色のない冷たい夜の中で、その橙色の光はわずかに温もりを持っているような気がして、その実態のない温もりを捕まえるかのように両腕を抱いていた。
 見上げると、葉の隙間から街灯が見える。絡んだ蔦の葉が丸い電球の側にぶら下がっており、その様子は私に先ほど見た正月飾りの橙を想起させた。実が落ちないその様や、橙と代々をかけて、永えの繁栄を願って飾られる縁起物。しかしその味は悪く、食用に適さない。見栄えだけで、いくら眺めても腹の足しにならない果実と、色の割に何の暖にもならないその光は、やはりとてもよく似ているように思えた。
 あの橙のぶら下がった扉の向こうにあるはずの光景を、再び思い浮かべた。凍える必要のない、脅かされることのない、穏やかな光景。どうして、私はそこにいられなかったのだろう。どうすれば、そうやって過ごせたのだろう。炬燵で蜜柑を食べるようなことまでは望まない。せめて、あの橙の下でいいから、雨だけでも満足にしのげたら。押し寄せる疲労と寒さに震えながら、そんな願いを思い浮かべる。
 氷雨降りしきる暗闇に、沈鬱な橙色が灯る。私に許されたほんの些細な慰めは、このわずかに落とされた光ばかりだった。こんな状況下で、永遠性を司る橙の光に包まれていることが酷く皮肉に感じられた。私はただ見ていた。その灯りを、門に拒まれた者のために光る、橙にすら若かない光を。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。