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なぜ、もっと〇〇だといいのにと思ってしまうんだろう

なぜ、「もっと〇〇だといいのに」「もっと〇〇でなければならない!」と思ってしまうんだろう。自分のことを、どこか欠けている人間だと思ったりしてしまうんだろう。

三日月を見て、きれいだなーって思ったことある?
わたしは、あるよ。
暗闇の中で、キレイに輝く三日月を、うっとり眺めたことあるよ。

どこか欠けている人間だと思っていたとしても、実は欠けてる訳じゃない。そう、あの三日月みたいに。光が当たっていない部分があるだけで、お月様はいつだって、まん丸なお月様だ。それとおんなじように、わたしもどこか欠けている存在だと思う時があったとしても、欠けてるわけじゃないのかも。ただ、光が当たっていない部分があるだけ。

じゃあ、そこに光を照らすのは誰か??

自分以外の誰かに、光を照らしてもらうことだけを期待していると、苦しくなる。それは、他人からの評価が欲しくて欲しくてたまらない状態のときのように。

光が当たる方向へ、自分で動いたっていいと思う。
ひまわりが、太陽の方向を見て動いているように。

自分で動くのが疲れた時は、休んだっていい。暗闇の中にいるように見える新月の時も、変わらずまん丸なお月様のように。

きっとわたし達も、まん丸な存在なんだって思う。

あるいは、満月になるのに周期があるように、自然な流れに任せて満月の日を楽しんでみたりするのもいい。暗闇の中にいるような気がする新月の時が訪れても、静寂の中でなみだを流して浄化するような時間を持つこともいい。

いつの日も、何もしなくても、まん丸な存在だから大丈夫だよ。
いつの日も、光が当たり続けているなんてことはない。

月の満ち欠けと同じように、わたし達の心も移ろうもの。それが自然だと思う。

そんなとき「欠けている私はダメな存在だ」と思うことがあるだろう。どうか、そんなときはこの話を思い出してほしい。

三日月は、三日月のままで充分美しい、ということ。

どんなに完璧に見えるあの人も、
ひとつぶの涙で、枕をぬらしたことがない、ということはないのだから。

どんなよろこびのふかいうみにも
ひとつぶのなみだが
とけていないということはない

黄金の魚   
谷川俊太郎



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