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教育的施設としての古城の塔 ~なぜ古城の塔には廃墟感があったのか~

 日本帰国後、最初の大プロジェクトである練馬城址豊島園の設計を遂行した戸野琢磨先生は、その先進事例から「遊園地としての豊島園」以外にもいくつか遊園地設計についての文書を残されています。
 今、私の手元にあるのは下記の三点です。

「遊園地の設計と施設」 
綜合園芸大系 第11篇 (最新造園法 5版 洋庭・公園・遊園地篇) 図書 石井勇義 編. 誠文堂, 昭和9 <615-43>
「欧米の遊園地」公園緑地 14(2) 1952 p.6~11
「遊園地計画」
造園の計画と設計図書 戸野琢磨 著. 鹿島研究所出版会, 1970 

  このうち、「欧米の遊園地」はタイトルの通り海外の事例の紹介ですが、「遊園地の設計と施設」、「遊園地計画」については、国内で遊園地を設計するにあたってのHow to本的な内容になっているため、事例として豊島園もいくらか登場しています。

 今回は「遊園地の設計と施設」に登場する豊島園と古城の塔について紹介し、「遊園地からの豊島園」だけでは読み解けなかった古城の塔の設計意図を探ってみます。

それぞれの随筆の概要

 3つの文書を紹介しましたが、実はそれらはかなり時代に開きがある文書です。
 「遊園地の設計と施設」は、昭和9年(1934年)に「綜合園芸大系 第11篇 (最新造園法 5版 洋庭・公園・遊園地篇)」という書籍の1章として、249ページから318ページまで書かれたものです。遊園地の設計に必要な要素、娯楽施設、休憩所、競技用施設、遊戯用施設(アトラクション)、教育用施設、造園的施設に分けて事細かに説明しています。
 「欧米の遊園地」は終戦から間もない昭和27年(1952年)、庭園協会の会誌の中で書かれている主にアメリカ、イギリス、イタリアの遊園地の事例紹介です。
 一方「遊園地計画」の方は昭和45年(1970年)ご自身の著書「造園の計画と設計」の一章でページ数は27ページから36ページの10ページですが、実はそのうちページの前面が図や写真で占められているのが7ページあり、実質文章は3ページしか書かれていない簡素な内容です。豊島園については平面図と、噴水塔、古城の塔、大階段の写真が掲載されていますが、文章にはほとんど登場しません。
 昭和45年と言えば終戦から25年。豊島園はとっくに西武鉄道の傘下に入り、ウォーターシュートは既に無くなってミステリーゾーンやアフリカ館、フリュームライドといった今でも知られるアトラクションが登場していた時代でした。

 つまり実質昭和9年を最後に戸野琢磨先生は豊島園の設計についてあまり積極的に発信をしていなかったわけですがこの理由についてはあくまで推察ですが、実は昭和6年に豊島園は多額の負債を抱える形で開業者の藤田好三郎氏の手から離れています。したがって、残念ながら豊島園は成功事例としては世間に認知されず、設計者である戸野琢磨先生にスポットライトが当たる機会が無かったのではないかと思われます。

「遊園地の設計と施設」に出てくる豊島園と古城の塔

 「遊園地の設計と施設」は最初にお伝えした通り、国内で遊園地を設計するにあたってのHow to本的内容の文書なのですが、豊島園は随所に写真が登場します。中でも古城の塔の写真は多く、下記の説明でこの随筆に4枚出てきます。

 ①「天然の風致を利用した遊園地内の建物」
  →城山から古城方向の写真
 ②「遊園地の休憩所より花園を望みて」
  →バルコニーから英国式庭園方向の写真
 ③「遊園地内に於ける造園的施設と英国式花壇」
  →花壇から噴水塔・古城の塔方向の写真
 ④「遊園地内に見る英国風の建物」
  →土塁の下から古城の塔方向の写真

 この写真タイトルからも古城の塔が「風致を利用した建物」であること、「休憩所」の要素もあること、「造園的施設」であること、そして「英国風の建物」であることが分かりますが、それぞれ写真の掲載ページからさらに紐解いていきましょう。

 まず、①「天然の風致を利用した遊園地内の建物」の写真の掲載ページ本文には、遊園地が発生した起因を分類して下記のように書かれています。

 天然の風致を利用せるもの。
 天然の美景を利用して、此處に訪れ来る人々をあてこみ、相當の娯樂設備をしたものである。

 豊島園は藤田好三郎氏が練馬城の城山を中心とした景勝地を庭園として整備したものですので、天然の風致を利用したものであることは周知の事実ですが、この本文より古城の塔はその美景を利用するための「相当の娯楽設備」として性格がある事が分かります。

 ②「遊園地の休憩所より花園を望みて」は「効用的方面の設計」という章の中、「慰安娯楽を興へること」という文章に添えられています。その文章の一部を下記に抜粋します。

 出来得るならば、有料の興行的なものに依って興へる慰安娯楽の他に、風致を利用したり、水を面白く取扱ったり、或いは遠景を取入れて休み乍らに慰められ、樂しめるが如き設計は望ましいものである。殊に、近來の遊園地には遊園的色彩を帯びた装置が考へられる様になつた。即ち、花壇や噴水の美、其他彫刻を配置したりすることに依つて、遊園地を美しくする。

 これは「遊園地としての豊島園」にもあった通り、古城の塔が「花園を眺め休憩すると同時に食事を取る事が出来たならば」という思いから設計されたものであるという事と完全に一致しています。
 そしてそれは単に「憩いの場」としてではなく、遊園的な色彩を与える事で、遊園地そのものを美しくするという相乗効果を狙っているのだという事がこの文章から読み取ることができます。

教育的施設としての古城の塔

 そして、本随筆に於ける古城の塔に関連するものとして、最も重要であると思われるのが③「遊園地内に於ける造園的施設と英国式花壇」です。
 ③の写真は「教育用の施設」という章の中の「四、教育的な造園的施設」という文章にリンクしています。その文章を読むと、戸野先生が造園的施設を教育的施設として位置づけている理由と、何を以て「教育的」としているのかを理解することができます。

 高尚な風致を備へる遊園地にあつては、入園者に一種の観賞的知識と趣味の向上とを興へるものである。殊に此意味に於いては、日本式庭園の行き方よりも、欧米風のものに於いて有数である。書方雑誌等にて見る外国の花園や噴水は、成程美しい気持ちの良いものであると言つても、さて實際どんな風處に設置してあるものか、又實物に於いて色彩や水の動き具合が、光線等と如何様な関係がある等は、其のものを目の當りに見る迄は全く見當のつかない事が多い。

 この文章から分かるように、戸野琢磨氏が意図する「教育」とは「観賞的知識と趣味の向上」、すなわち知的好奇心を刺激することである事が分かります。
 そしてそれには、見慣れた日本庭園のみよりも雑誌や本でしか見られないような欧米の風景を見る大切さを強調しているのです。

 活動写真に見る庭園は其物語に伴って意味がある。然し自分を其の主人公に代らせて其庭園に散策させても、實際見ない迄は殆んど其気持ちが解らない。其んな意味に於て、實物背景を遊園地に造り、其内に種々な人をして遊ばしめることは各々其人の環境に依つて興へられる感じは違つても、何か有意味であれば結構である。

 そしてそれらは活動写真(映画)だけでは足りず、やはり自分自身が実際に見て学ぶ実学が重要であると言っています。
 何かその人にとって意味があれば、感じ方や楽しみ方は人それぞれあって構わないというのです。

 殊に外國に数年生活をした人達には、最も共鳴される點(てん)が多い。又學生達其他の人にでも外國の一部を想像さしめたり、又これを観賞さしめる丈けでも良い教育と思う。

 古城の塔のみならず、噴水塔、花壇、大階段、プールの滝など、初期の豊島園には英国式であったり伊太利式様式を取入れたものが多くありますが、それもこの文章を読めば納得できます。豊島園には「外国の一部を想像してもらって知的好奇心を刺激する」という意図もあったのです。
 それであれば、古城の塔が「遊園地としての豊島園」の中で曰く、

 澁い廃墟の趣きを出すに努力した

ことも納得できます。外国への知的好奇心をかきたてられるよう、綺麗なお城ではなく英国式古城の臨場感を出す演出をしているのだと考えられます。

 写真④「遊園地内に見る英国風の建物」については最後のまとめの文章のページに掲載されています。このページは総論であり、あまり写真とリンクする内容がないので、最後に見栄えの良い写真を装飾的に添付したものと思われます。

外国への知的好奇心

 豊島園と古城の塔から「外国の一部を想像」させ、実学を重んじる戸野琢磨先生の考え方は、先生ご自身の生き方ともリンクするように思います。

 先生は造園へすすむ気はなく、中学時代の英語の教科書口絵に12頭立ての場所が農園を駆けている景をみて将来この様な農園を営む夢をいだき、北大農学部へすすんだ。
 日本ではその夢を実現するにはほどとおく渡米したが、アメリカでもその夢を果たすのは難しく、親戚がニューヨークで骨とう商を営んでいて灯籠などを売る手伝いをさせられたのがきっかけで、コネール大学で造園を学ぶことになった。

(「名誉会員 戸野琢磨先生をしのぶ」金井格 造園雑誌 49(1), ii, 1985-08-19)

 これは以前も紹介した、金井先生が戸野先生ご自身から聞いたエピソードです。
 戸野先生ご自身も、「教科書の口絵」という外国に興味を持つきっかけがあり、アメリカでも色々と苦労されながら実学を重ねて造園家として大成していかれた様子が伺えます。
 その人生経験から、戸野先生は来場者の知的好奇心を刺激する装置として古城の塔をはじめとした教育的な造園施設を豊島園に仕掛けたのかもしれません。

 そう考えると、古城の塔に興味を持ちその建築の歴史を追っている私たちも、もしかしたら戸野先生の術中にはまっているのかもしれませんね。


引き続き、豊島園古城の塔の保全キャンペーンへの応援を宜しくお願いします。


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