誰でもライターになれる時代に、誰かを傷つけないために。持っておきたい「ケアの視点」のこと。
さいきん、よく「メディアによる傷つき」についての話に触れる。
たとえば重大犯罪の被害者の方で、加熱する報道によってプライバシーを侵害されただけでなく、その後メディアによる「悲惨な事件の遺族」というステレオタイプに押し込めた伝え方によって、スティグマ(負の烙印)にくるしんでいる方の話であったり。
たとえばインフルエンサーで、メディアによる「挫折をのりこえた、キラキラした成功者」として伝え方によって、実際の自分とちがう虚像としての自分が一人歩きしている感覚にくるしめられた、という話であったり。
メディアは人を傷つける。
それは「ちょっと凹んじゃった〜」くらいのかすり傷であることもあれば、生きることの土台を揺るがしかねない大きな傷であることもある(木村花さんの事件のように)
そんなメディアの暴力性について、メディアのことを学んだ人であれば「メディアスクラム(集団的過熱取材)」がかつて問題になったことや、報道においてのプライバシーの問題、人種やセクシャリティに関するメディアによるラベリングの問題など、「メディアに関わる者としての倫理観」を学んだことがあるはずだ(実際にできているかは別の話だけど)。
けれどいま、「メディアに関わる者としての倫理観」をじゅうぶんに持たない取材者が増えている気がする。もちろん、自分も含めて。
なにしろ、名乗ってしまえば誰でもライターになれる時代なのだ。たとえるなら、免許をとらなくても車で公道を走れる。そんな時代。
だからこそ世の中にたくさんのコンテンツが生まれているのだし、そんな時代じゃなかったら僕は文筆業ができていなかったわけだから、「こんな時代さいあく!」とすべて否定したいわけじゃない。
だけど、あぶなくないですか?
そこらをビュンビュン走ってる車が、実は無免許なんて。
誰でもライターになれる時代に、その人たちがメディアがときに人を傷つける、という危うさについて無頓着なんて。
「メディアに関わる者としての倫理観」って言葉がかたくるしければ、「ケアの視点」といってもいいかもしれない。
臨床心理学者の東畑開人さんは、「ケア」を「セラピー」との違いを、こんなふうに説明してる。
ケアとは、傷つけないこと。
そのために、相手のニーズにちゃんと耳を傾け、尊重する。だからこそ相手は安全が確保される。
そんなケアの視点は、「いかにキャッチーな記事をつくって、バズらせるか」を大事にする世界では、置いてけぼりにされてしまいがちだ。だから、取材対象者を傷つける。
でも、いかに読者に喜んでもらうかとか、どれだけバズるか、ということは、「取材対象の方を傷つけないこと」より優先されるものじゃ決してないと、僕は思う。
だからこそ、念仏のように唱えたい。ケアの視点、ケアの視点、ケアの視点…
ちなみに東畑さんは、「ケア」と比べて「セラピー」がどういうものかも説明している。
なかには、セラピーになるような取材もあるのだろうか。取材者として傲慢すぎるかもしれないけど、読む方の心も動かし、取材された方にとっても傷つきに向き合い、成長につながる。結果的に、取材がそういう機会になったらうれしいなあと思う。
それを狙ってしまうと、逆に傷つけることにつながると思うから、祈りのような気持ちなのだが。