葉山 幸せですか
葉山でポートレートを撮るのは30年ぶりだ。
湘南というと辻堂と茅ヶ崎が一番馴染み深い。赤松町にアパートを借り写真を撮っていた頃でさえ葉山にはほとんど行かなかった。
30年前六本木に住み写真事務所を出していた頃ときどき会うひとがいた。そのひとは広告代理店で働いていて今で言うならパワハラやモラハラに近い目に遭っていた。よく電話がかかってきて悩みを聞いた。時間は決まって22時をまわっている。電話で足らない日は直接会った。その時間に開いているカフェが代官山にあって、よくクルマを飛ばした。
彼女はコンタックスを使っていた。なんのことはない、カメラを始めたいというから僕が勧めて一緒に買いに行ったのだ。もうAFの時代だったからマニュアルフォーカスのカメラを勧めるのはどうかと思ったけれど、彼女といろいろな話をする中でそれがいいと思ったし何より僕自身が何機種も愛用していたから責任を持ってレクチャーするつもりだった。
実際よく一緒に写真を撮りに行った。彼女は技術は素人だけど写真を扱う仕事をしているだけに撮る写真にいつも心が動かされた。写真がすごく、泣いているのだ。何を撮っても。
ある日珍しくまだ明るい時間帯に電話がかかってきた。今夜19時頃に会いたいと。そういうパターンは珍しくて、彼女の声色からかなり良くないことがあったに違いないと感じた。
気分転換が一番いい。いつものカフェに行くつもりで待ち合わせ場所にたどり着いた彼女をサプライズで葉山に連れて行く。長者ヶ崎の「プラージュ・スッド」がいい。御用邸にほど近い海辺のレストランで、本当は夕暮れ時が一番いいのだけれど店内から海を見渡せてそれがまるで船のデッキにいるようで美しいから。
ワインを楽しみながら彼女は一通りの悩みを流していく。凪の海のようにおだやかな表情になっていく。
「そうだ」
と、彼女が自分のコンタックスをバッグから取り出す。
「これで私の写真撮ってください。撮影料いくらですか?」
僕は笑いながら言う。
「1カットならプレゼントするよ」
「本当? 2カットなら?」
「2カット目からは規定の料金をいただく」
「いくら?」
「1カットにつき100万円」
ばかみたいに2人で笑って、そして僕は1回だけシャッターを切った。
彼女と、別に付き合っていたわけではないのだと思う。きっとただの相談相手としての関係が1年半ほど続き、そして終わった。
しばらく連絡がなくてどうしているのかなと思っていたら、幸せそうな声で「会えますか?」と電話がきた。
目の前にいる彼女は見違えるように明るくなっていた。
「私、婚約したんです」
悩みや苦しみの面影はどこにもない。
「これまでこんなに人を好きになったことはないんです。初めて、かもしれません」
これほど嬉しそうな人の顔を、僕は久しく見たことがないような気がする。胸がいっぱいになる。月並みだけど目頭が熱くなる。
いま彼女がどうしているかは知らない。
僕の手元にはあの日葉山で撮った写真が残っていない。彼女のカメラで撮ってそのままプレゼントしたものだから。でもあの凪の海のようなおだやかな笑顔は僕の心の中に在り続ける。
きっと幸せにしているはずだ。