計算画の提唱 - ジェネラティブアート作成時の頭のなか 番外編 #AltEdu2022 28 日目
本日のお題
いよいよ #AltEdu2022 も最終日である。最後のお題は「100 年後の誰かに向けてコードを書いてください」とのこと。
どのようなコードを書くべきなのかは、まだ決まっていないが、書くべき内容は少し前から決まっていた。
計算画または数理画
それは、計算画または数理画というジャンルの提唱である。これらの用語は絶対的なものではなく、もしかすると数画・数理絵画・数理的絵画・計算絵画・算画などなど、様々な言葉が思い浮かぶ。でもまあ、とにかく、これまで私が作成してきたような画像を指すものである。英語で表すと Mathematical Painting もしくは Mathematic Painting、または Computational Painting になるかと思う。ただ、これらのキーワードで検索して出てくるものと、ここで私が提唱するものとは少々異なるもののようである。
ジェネラティブアートとの違い
計算画は、あくまでも数理や計算を絵画に用いるものである。アルゴリズミックアートの範疇に入る。その意味ではジェネラティブアートと似ている。しかし、偶然による作者と作品の相互作用には重きを置かず、あくまでも作者が作りたい絵を数理的アルゴリズムにより生成することに重きを置く。
そのような意味で、計算画はジェネラティブアートとは異なる概念である。そして、このような内容のものを「ジェネラティブアート制作時の」なるタイトルを付した文章に書いているのも、妙な話であることは重々承知している。ご容赦いただきたい。
絵画の歴史に鑑みてみれば、計算画とジェネラティブアートとの違いは、より原初的な衝動に重きを置くものであり、ある意味、先祖返りしていると言えるのかもしれない。これは、個体発生が系統発生を繰り返すように、数理的アルゴリズムによる気軽な描画環境を手に入れた我々が、新しい表現分野の萌芽に伴い、既存の手法を用いて原初的な絵画から出発することを意味するのかもしれない。
作者が描きたいものを数理的アルゴリズムにより描く - 計算画はただそれだけである。
既に示したように、計算画はアルゴリズミックアートの分類に入るものである。しかし、アルゴリズミックアートは、ジェネラティブアートのような抽象的な表現ばかりではなく、夕焼け空や花など具象的な表現もアルゴリズミックアートで生成されても良いのではないか。具象的な表現をアルゴリズミックアートで表現してはいけないという法はどこにもない。
また、予期しない偶然的な良いこと - セレンディピティも計算画には必要とはしない。もちろん、それを排除するものでもない。セレンディピティが有っても良い。ただ、セレンディピティの存在を必要条件や前提条件とはしないだけである。ジェネラティブアートもセレンディピティなんぞ必要とはしてない - という意見もあるかもしれない。ここで私が言いたいのは、計算画はジェネラティブアートよりも偶然性が果たす役割からは、より独立している、という程度のことである。
計算画が目指すもの
本日のテーマは 100 年後の誰かにむけて - というものであった。100 年後の計算画について、私が期待するもの、計算画の発展の方向性をここに記したいと思う。
計算画の研究においては、描画手法の確立を目指す必要が急務であると感じている。例えば山を描きたい、雲を描きたい、猫を描きたい - という具体的な対象物を描きたいという欲求に対しては、ジェネラティブアートの教科書は何も応えてはくれない。そもそもそれらは、フラクタルを用いた島の描画や手続き的モデリングなどコンピュータグラフィックス(CG)の世界で語られてきた内容であり(procedural modeling, etc)、カテゴリが異なるからだ。
これら CG における手続き的なモデル生成は、近年より精緻になっている。それはそれで素晴らしいことである。しかし、誰もが A. J. Preetham のモデルを用いて、より正確な空を描きたい訳ではない。子供がクレヨンで空を描くように、単なる水色で塗りつぶしても良いではないか。
絵の具でそれぞれが好きなように空を描くように、数理的アルゴリズムにより自由に空を描きたいだけなのだ。それが現実の空の色と異なっていても関係ない。計算画ではこのようなことを大切にする。
そんなことを言っていると、それって単なる NPR - Non Photographic Rendering なのでは?という疑問を持たれた方もいるかもしれない。計算画は NPR や procedual modeling 等、既存の概念を元にした新しい領域(なのか分野なのかは定かではないが)なのである。これまでの概念や手法を土台とし、新たな表現を確立するものである。超学際的芸術 - transdiscplinary arts のひとつの形なのではないかと思っている。
NPR の手法や、procedual modeling 等の手法を活用し、これらを新たな絵の具・画材の提供とみなし、それで絵を描く。それだけの話である。
これはある意味、写実的・物理シミュレーションに向かってしまったコンピュータグラフィックスへのアンチテーゼであるかもしれない。計算画とは NPR の別の呼び名であるのでは - という点については、計算画では、必ずしも写実的な表現を行わないという訳ではない。ここが NPR とは異なる部分であり、それゆえ計算画という新たな呼び名が必要となる所以でもある。
例えば、私は写実的な猫の絵をアルゴリズミックに描いてみたい - という欲求を持っている。これは決して NPR による表現ではない。油絵等で写真と見紛うような写実的な猫を描いてみたいという欲求と何ら違いは無い。目指すのはフォトリアルであり、ノンフォトリアルではないのだ。
写実的な猫の絵を計算により表現する場合、CG の文脈で言えば猫の形状をモデリングし、それをレンダリングするのが一般的な方法であろう。しかし、計算画では、おそらく何らかの情報圧縮を行った結果としてのデータと、アルゴリズムにより猫を表現するのが自然ではないかと考えている。
計算画においては、与えられるデータ量とアルゴリズムの比率は、かなり重要であると感じている。例えば、与えられたデータを三角形を構成するものとみなし、それらから法線を計算し、光源との内積により色付けしていけば、三角形ポリゴンから構成される形状が画像として現れてくる。もちろんこの作業には計算が伴い、そこにはアルゴリズムが存在する。しかし、これは CG であり、計算画ではない。通常の CG をアルゴリズミックアートとは呼ばないのと同じである。
計算画似おける猫の描画においては、IFS - フラクタル圧縮などは有力な候補ではないかと感じている。しかし、どこまで少ないデータで猫を描画できるのか - といったことはまだ良くわかっていない。
計算機の高性能化に伴い、我々は莫大な情報をいとも簡単に扱えるようになった。しかし、計算画においては、データは自分が理解・把握できる程度にとどめ、その程度のデータから計算により絵を生成することに重きを置く。
このように考えると、計算画というのは、ある意味、人間が理解・把握できる制限の下での CG といえるのかもしれない。写実的であるか否かといった議論から離れ、単にコンピュータで絵を描くといった、電気絵の具としてのコンピュータグラフィックスの可能性は計算画へと流れ着くのかもしれない。
描きたいものを数理的アルゴリズムにより描く。その知見は計算画の技法として収集・蓄積されるべきである。少なくとも私はそう感じている。計算画を学べば、数理的アルゴリズムにより自分の描きたいものが描けるようになる。100 年後にはそのような世界が実現していて欲しいと思う。
DbN から DbM へ
もちろんのことであるが、計算画は特定の描画システムに依存しない。現在、私は Twitter で作品を発表するとき Processing をよく用いている。Processing は気軽に計算画を始められる良いシステムであるが、計算画は Processing に限定されるものではない。
Design by Numbers (DbN) が Processing へと発展していったが、計算画は Drawing by Mathematics (DbM) として発展するべきであり、Processing とは異なる描画システムを生み出す必要があるのかもしれない。とは言うものの、そもそも既存のもので「もう十分」なのかもしれないが。
100 年後の誰かにむけて
100 年後も、私のように自由に考える人は存在すると思う。いや、居て欲しいと強く願う。数学やプログラミング技法を駆使し、原初的な絵を描く。
そう言えば、今回の #AltEdu2022 で最初に発表した作品は、奇しくも子供が描くような太陽の絵であった。このような絵を計算画で描く。なんとも象徴的であり、かつ、予言めいたことになったように思う。もちろん、下の tweet をしているときは、計算画という概念すら認識していない。計算画という概念は #AltEdu2022 における本日のお題を考えていたら出てきたものである。
子供のようにのびのびと自由に、数理と計算によってアルゴリズミックに絵を描く。そんな事柄を楽しむ人達が 100 年後にもいることを願いつつ、今日のコードは上記のコードとしたい。
結局今日はコードを書くことはなくなってしまったが、そんなことを考えつつ #AltEdu2022 を終えたいと思う。
#AltEdu2022 を企画して頂いた皆様へ:
非常に楽しかった。ここに感謝の意を示したいと思う。どうもありがとう。