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ストーリー・オブ・マイ・ライフ感想〜気軽に観て、ちょっと泣ける、ちょうどいい作品〜
11月に入ったある日、母と『ストーリー・オブ・マイ・ライフ(以下SOML)』を観てきた。本作はキャストは男性2人のみ、生演奏で、休憩なし110分のミュージカルである。あらすじは省く。気になる人は下のリンクから飛んでほしい。
さて、感想はというと、一言でまとめるなら「110分だけど80分で良い内容」という感じだった。ネットでの評判は軒並み高評価で、自分の意見を正直に書くことは少し躊躇われたが、この広いネットの中にもきっと私のような意見を持った人がいるはずと信じてこの感想を投稿する。「自分とは違う意見を知りたい」という人も歓迎するが、「否定的な意見は聞きたくない」という人はここでブラウザバックしてほしい。
この作品ではさまざまなテーマが散りばめられている。「人の死に対する態度」や「キャリアのみを追い続けることへの疑問」、「人として大切なことは一体何なのか」という一見深められそうなものばかりだが、たいした見せ場がなく、印象的な楽曲も無く、新しい気づきや発見、作者なりの意見がはっきりと描かれていない(一応作中では答えを出している)ため全体的に薄ぼんやりとした印象だった。
作者なりの答え「死者のことは結末ではなく、その人が生きてきた過程やその人の好きなもの、大切にしていたことで語ろう」「キャリアも大事だけど、周りの人のことも大事にしよう」はかなり平凡な回答である。しかし、問題点はそこではない。そんなことを語っている舞台や映画、ドラマなどはごまんとある。むしろ、誰にでも普遍的に刺さるテーマだからこそ、人々の支持を得られるのだ。では、行き着く先が同じであるならば、なぜこの世の中には多種多様な物語が存在するのだろうか。それは、作り手たちがあの手この手で伝え方を工夫したからだ。工夫は随所に表れる。ある者は時代背景を変え、ある者は環境を変え、ある者は語り方を工夫した。
SOMLは基本2人が見たこと、聞いたこと、そこから感じたことを中心に語られる。だから、2人の周りで起こったことでも、2人が当事者でないかぎりは間接的に表現される。この物語ではアルヴィンを含め、4人死んでいるのだが、それらはサラッと流されてしまう。なぜならこの物語において「死」そのものは重要ではなく、むしろそこから起こる出来事がメインだからだ。実際、劇中では4人の死が物語を大きく動かしていく。
アルヴィンの母の死は2人を出会わせたし、ミセス・レミントンの死はトーマスに弔辞を書かせたし、アルヴィンの父の死はトーマスを名誉心から解き放ち、アルヴィンの死はこれからを生きていくトーマスの背中を優しく押した。ここでは「死」は些細なきっかけでそこから生まれる負の感情(悲しみ・怒り・憎しみ)は描かれない。私はなんだかそこに違和感を覚えてしまった。「死」を矮小化しているかのような、「死」を都合良く利用しているかのような、そんな印象を抱いてしまった。死んでいった者たちはみな1人の血の通った人間であったはずで、なのにこんな扱いでいいのだろうか。考えているうちに、作者は「人の死は悲しむべきもの」という固定概念に一石を投じたかったのかもしれないと思った。だから、わざと人の死に関することに明るく、軽く触れたのかもしれないと。しかし、その態度は私に「命の軽さ」を感じさせたし、人の死に対して真摯に向き合っていないという印象を与えた。こんなことなら、セオリー通り喪失に苦しみながらも、涙を拭って立ち上がる主人公を描いてくれた方がよほど良かった。
また、上の話に関係してくるのだが、この作品では2人の間に激しい感情が描かれることはない。アルヴィンはトーマスに「行かないでくれ!」と叫ばないし、トーマスはアルヴィンに対して「お前は変なんだよ!いい加減現実を見ろよ!」なんてことは一言も言わない。ただ、なんとなく、小さなことの積み重ねですれ違っていく。互いに互いが優しすぎて、画面が退屈になっている。よく言えばリアル、悪く言えばメリハリがなく単調である。
「リアルなのがいいんじゃん!」「じゃあ、あなたは現実で友人と激しく口論したりするのか?」という声が聞こえてきそうだ。だが、考えてみてほしい。激しい、大袈裟な様子をどうして「劇的」と表現するのかを。普通では考えられないくらい大袈裟だから、はっきりしているから「劇的」なのであり、裏を返せば大袈裟なのが「演劇」なのだ。別にシェイクスピアのように長ったらしい比喩表現を用いたセリフが聞きたいわけではない。何もサーカスみたいにどんちゃん騒ぎをしてほしいわけではない。ただ、脚本のスケールをちゃんと舞台向きに合わせてほしいだけだ。よく、ドラマが映画化された際に「何か無駄に壮大じゃね(笑)」という意見が出るが、どうしてそうなるか、はたまたそうならなかった場合はどうなるか考えてみてほしい。
この作品では激しい感情が描かれないと指摘したが、それを引き起こすポテンシャルを十分にもっている「死」が軽く扱われているのが原因の一つと言えるだろう。2人の周辺で起こったことは間接的にしか伝えられない以上、感情のはっきりとした動きを作るには、2人自身が何かを強く思うだけではなく互いに対してそれをはっきりと表現する必要がある。だが、2人はそれをしない。互いに優しすぎるのだ。だから場面にメリハリが出ず、ボケッとした印象になってしまうのだ。この作品の感想を読んでいる中で「短編小説を読んでいるかのようだった」という意見があったが、本当にその通りだと思う。2人の複雑な感情の揺れ動きを表現するのには小説の方が適切だったのではないだろうか。これを舞台に乗せる理由が私にはわからなかった。ましてや、歌う意味もよく分からなかった。ミュージカルにおける歌は、感情の高まりや圧倒的な力の表現であるからだ。せめて、小説とミュージカルの間をとったストレートプレイならまだ納得がいったかもしれない。
感想を読む中では「最初観た時には理解しきれなかったけれど、何回も観ていくうちに深みがました」という意見も散見された。それならばなおさら文章で表現した方が適切だったと思う。なぜならば、文章であれば自分の好きな時に何回でも、自分の好きなところから読み返せるからだ。舞台だとどうしても「Show must go on.」の示す通り、巻き戻せないし、繰り返せない。チケットの価格的にも繰り返して観ることを前提にするのは非現実的である。「しかし、小説で表現すると作者が思った通りの順番で読まれない可能性があるじゃないか!作者の意図を正しく伝えるという意味では舞台の方が適している」という意見もあるかもしれない。だが、私はそれに異を唱えたい。小説も舞台も、受け手が人間である限りその精神状態や思考に大いに左右されてしまうものだからだ。小説で順番通りに読む人がいれば、自分の好きなページから読む人がいるのと同じで、舞台でも全てのシーンを満遍なく観ていても、印象に残っているシーンや正確に記憶しているシーンはそれぞれ違う。ただ、舞台の方が数%くらい物語の意図を届けられる確率が上がるかなと言った程度である。それならば、何度でも読み返せる紙媒体で出した方が良かったのではないだろうか。
話をSOMLに戻す。この作品は「死」を描く気概もなければ、2人を徹底的に向き合わせる覚悟もない。アルヴィンが死んだ理由もぼやかして、何のリスクも犯さない。故に何も残らない。気軽に観て、ちょっと泣ける、ちょうどいい作品だった。