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アベマリア 第10章 夢枕

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第10章 夢枕
 
    1
 
 ダイゴの長い話に疲れたのと、お酒がまわり、私に睡魔がおそってきた。
 眠りにおちそうになっている、私の耳元で、アイちゃんの声が聞こえた。
「いいわけにしか聞こえないかもしれないけど、わたし神野次郎とそういう深い関係ではなかったのよ。
 クニイチよりも、もっと表面的、だったの。お茶のみ程度。
 バカな元夫の、大きすぎるかんちがいが、誤解を生み、あんなことになってしまった。
 いずれにせよ、神野美樹さんが、夫の次郎さんを失ったような悲しみは、同じように夫のヒロシを失った私にはないわ。
 わたし、ある意味、そこまで強い嫉妬をもつほど夫を愛していた美樹さんがうらやましい。
 
 でも、最近、よく思うの。
 どんなに、背伸びしても、絆の深いカップルには、私はかなわない。
 世の中で最強のものは、絆の深いカップルよ。
 大きな仕事をしたり、本当に良い仕事をしたりしているところには、すべて絆の深いカップル達がいる。
 ねえ、クニイチ。
 わたしたち、もう遅すぎるかしら?
 年をとりすぎているかしら?
 わたし、クニイチとなら、そういうカップルになれそうな気がするの」
 
    2
 
 前の晩、仕事場に泊まったある日のこと。
朝から、寒気がしていたと思ったら、昼になって咳や鼻水がひどくなってきた。
 体温計をさがしだし(奇跡的に仕事部屋に体温計があった!)、体温を測ると、38度5分。
 これは、インフルエンザにもなったかな?と、私は、ダイゴ医師のクリニックにかかることにした。
 そう決めてしまうと、仕事中の時間の経過が短く感じられることといったら。
 私は、昼過ぎに仕事をきりあげ、電車にとびのった。郊外にある自宅近くにあるダイゴ医師のクリニックに行くのだ。
 
 夕方の診察後に、2Fの院長室でダイゴと雑談することは日常茶飯事だが、こうやって、患者のひとりとして、1Fの外来にかかるのはめずらしい。
「風邪にきく薬はないよ」
などと、嫌味をいわれるだけかもしれないが、少し今回は、体がだるい。解熱剤だけでももらおうと、私は、午後診療の4時30分くらいにクリニックを訪れた。
 午後診察のはじめと、午後診療の終わり際はけっこう人がくるけど、中間の時間帯はそうこんでいないよ、という、覚えていたダイゴ医師の言葉どおり。待合室には、私しかいなかった。
 院長の方針で、待合室にはテレビが映ってない。かわりに、世界遺産とか、自然の風景のDVDがテレビ画面に映し出されている。
BGMの音楽は、ダイゴ医師の好きな、ミッシェル・ルグランの唄だ。シェルブールの雨傘、ロッシュホールの恋人たち。タイトルは、彼とつきあううちに、覚えた。しかし、あまりよく知られている曲とはいえないだろう。
 それにしても、受付に事務がいない、というのは、いくら患者がいないからといって、いいのだろうか?休憩するにしても、診察時間中に誰も受付にいないというのは、いかがなものだろう?
しばらく待っていると、診察室のドアがあいて、ダイゴが顔をだした。
「いやあ、クニイチじゃないか。これは、めずらしい」
「風邪ひいたんだけど、けっこうつらくてね。我慢できずにやってきた。なんか薬ないかな?ひょっとして、インフルエンザ?」
「どうかな?まあ、とりあえず、診察室にはいれよ」
 聴診と咽頭喉頭の観察のあと、インフルエンザの簡易検査をうけた。ダイゴ医師は、私の鼻の中に綿棒のようなものを10秒間いれたあとひきぬき、試薬と反応させて、その液を3滴、検査キットのろ紙の上におとした。
「鼻水の中に、インフルエンザウイルスがいるか、これでわかるんだ。鼻の中に綿棒をいれると、反射で、くしゃみがでたり涙がでたりするものだが、クニイチは大丈夫そうだな」
「とりあえず。痛みも少なかったよ。ところで、受付や看護師さんは?」
 ダイゴは、なぜだか、何も答えず、検査キットのろ紙に、おとした液体がしみてくるのをじっとみつめていた。
急に外が暗くなってきたな、と思っているうちに、診察室の外の窓ガラスに雨の水滴が流れ始め、あれよあれよという間に、大雨になった。
「急に外が暗くなったと思ったら、大雨だな。でも、変だな。天気予報ではそんなこと言ってなかったと思うけど。
傘どうしよう?
 クリニックに患者の忘れものの傘とか置いていない?」
 ダイゴは、少し窓をあけて、手をのばし雨にふれて、すぐひっこめた。窓があいた、わずかな時間だが、雨の音が大きく聞こえた。どしゃぶりだ。
 ダイゴがつぶやいた。
「これは奇妙だな」
「ほんとうに、雨がふるなんて、ひとことも天気予報でいってなかったのにね」
「そうじゃなくて、この雨のことだよ」
「はあ?」
「雨がずいぶん、べたついてる」
「べたついてる?」
 私も、そっと、ガラス窓をあけて、手を伸ばして雨にふれた。大雨で、室内がぬれないように、なるべく素早く窓を開けて閉めたのだが、室内はかなり濡れた。
雨足は、さらに強くなったようだ。
「外はまっ暗だ。夜みたいに。・・・ほんとうだ。気持ちわるい。この雨、ねちょねちょしている。ダイゴ、これどういうことか、説明できる?」
「説明しろといわれても、ぼくにもよくわからん」
「ちょっと、玄関から外をのぞきにいってくる」
 私は、診察室をでてクリニックの玄関の方にいったが、すぐに引き返してきた。
「いったいどうしたんだろう?外はべとべとした雨。真っ暗。
外への道はなく、なんかぶよぶよした壁でクリニックの建物が囲まれているし。なぜなんだろう?」
「地面はどうだった?」
「地面も、ぶよぶよ、ぬるぬるしていた」
「なぜだろう?」
「ダイゴの得意の推理で、なんか考えてくれよ。そうだ、電話しよう。携帯を」
 私は、携帯をおした。
「最悪。圏外だ」
「もしかしたら」
「もしかしたら?」
「いやひょっとして」
「いやひょっとして?」
 また、だまりこんでしまったダイゴに、だんだん私はいらいらしてきた。
「どうしたんだ。なにか思いついた?」
「クニイチはインフルエンザ陰性だな」
と、検査キットのろ紙を手に取りながめながらダイゴは言った。
「ろ紙には一本線しかでてない。これは、検査がうまくいったことを示す、いわゆる、ポジティブコントロールの線だ。二本線がでれば、インフルエンザ陽性だが、検査結果は一本線。よかったな。クニイチ。インフルエンザではないよ」
「それはありがたい結果だ。でも、今は、インフルエンザの検査どこじゃあないよ。
この、急に降りだした、べとついた大雨。クリニックのまわりに急にできたべどべとした壁と地面。なにか説明、ダイゴはできる?救援を呼ばなくちゃいけない状態なのに、携帯で外と連絡もつながらないし」
「きちっと、雨の成分を、分析したわけじゃあないけど」
 ダイゴは、ゆっくり言葉を続けた。
「われわれは今、うなぎの腹の中にいるのかもしれない」
「なにを寝ぼけたことを言っているんだ?ダイゴは」
「だから、きちっと、雨の成分を、分析したわけじゃあないって、あらかじめ前置きしたじゃあないか」
「そうだとしても、うなぎの腹の中なんて」
「ぼくは、うなぎが大好きでね。1年365日、ランチはうなぎをたべている」
「さすがにダイゴ医師は、お金持ちだな」
「あまりに殺生しすぎたので、うなぎの神様がおこって、このクリニックをうなぎのおな
かに閉じこめてしまったのかもしれない。
べたべたした雨は、消化液で、壁や地面は、消化管の粘膜ということで、説明がつく」
 私は、われながらおかしなことを言っている、と自覚しながら、反論した。
「仮にそうだとしても。うなぎとはかぎらないじゃないの。
ヘビかもしれないし、クジラかもしれない」
「どの動物がお好み?」
「こんなときに、よくそんな悠長なことがいえるな。早く、なんとかしできないかい?」
「ぼくは、うなぎだと思う。長年食べていると、腹の中にいても、うなぎの匂いがわかる
んだ」
 そして、ダイゴ医師は、薬棚を物色しはじめた。
「なにを、探しているんだい?」
「薬だよ。麻酔薬、筋弛緩剤、降圧剤、抗がん剤。毒薬になるようなものをこいつの腹の
中、つまり窓の外へ投げこめば、きっとうなぎのお化けは、おだぶつだ。
おっと、昇圧剤とか、はきけどめとか、毒をうちけすような薬は一緒に、外へ投げない
ようにしないと」
 ダイゴは、窓をあけた。
雨の音が大きく響いた。
私はあわてて言った。
「待って。待ってったら」
「なんだよ」
「待ってって。毒薬はだめよ」
「もともとは毒薬でなく治療薬だけど」
「そうでなくて、麻酔剤とかでこのうなぎが動かなくなったら、ぼくたちここからずっと
出られないじゃないか。
なんか、うなぎが吐いて、ぼくたちを吐きだすような薬はないの?」
「そういわれればそうだな・・・じゃあ。これだ・・・えい、これでもくらえ」
ダイゴが薬を窓の外に投げ込み少したつと、雨がこぶりになってきたような感じになった。
やがて、地鳴りにつづいてクリニックの建物全体が揺れはじめた。
「ダイゴは、いったい、なにを使ったんだ?」
「下剤さ。上の方でなく、下のほうへ、われわれを出してくれるほうさ」
「まちがってはいないと思うが・・・。なんか、いやな気分・・・ギャー」
 しばらくして、気が着くと、雨はやみ、窓の外は明るく夕方の日光がふりそそいでいた。
 私が、窓ガラスをあけると、小鳥の声が聞こえた。
「どうやらぼくたち、助かったようだ」
「よかった、よかった。じゃあ、いっしょに、うなぎでも食べにいこうか。風邪なんだろう?うなぎ食べればすぐになおるさ。ぼくなんて、毎日うなぎを食べているんで、本当医者いらず」
「ダイゴは、本当にお医者さん?」
 
    3
    
「クニイチ、そろそろ起きて」
 気がつくと、私は、アイちゃんに膝枕してもらって寝ていたらしい。
 私は、自分が、オーストラリアのゴールドコーストに4人できていると気づくまで、少し時間がかかった。
 私は、ダイゴのややこしい、推理に頭がついて行けず酔っぱらって、レストランで寝てしまったようだ。
 波の音がする。
 
 ダイゴとサチさんはおらず、アイちゃんだけがいた。
 目の前に、彼女のかわいらしい顔があった。
「できれば、今の旦那と別れて。私とつきあってほしい」
過去に何回も私はそう言ったが、言うたびに、彼女は笑ってこう答えて、私は何も言えなくなるのだった。
「でも、別れたあと、クニイチに、今の私の生活レベルを維持していく稼ぎ、ある?」
 だが、実は、彼女の夫は、1年前に亡くなっていた。
 そのことを、既に、私が知ってしまったことを、彼女はもう知っている。
 そして、彼女の夫が死亡するに至った契機となったのが、彼女の、神野次郎との浮気だったということを、私が知っているということも、彼女はもう知っている。
 そして、彼女が神野次郎と浮気している間も、私が、そのことを知らず、彼女のことを愛していると言っていたということも、彼女は知っていた。
彼女は、私の愛を受け流していた。なぜなら、当時、彼女は、私でなく、神野次郎と浮気をしていたし、当時、私はそのことを知らなかったから。
 だが、今や、私はすべてのことを知った。
 しかも、あの事件で、神野次郎は死んだが、その双子の神野太郎はどこかで生きている、というのが、ダイゴと私の推理だった。
 アイちゃんが好きだったのは、いったい、神野次郎、太郎のどちらなんだろう?一方だけに会っただけなのだろうか?それとも、彼女は気づかなかったが、ある日は、次郎に会い、ある日は太郎に会っていたのではないか?
「できれば、私とつきあってほしい」
 今、また、私がそう言ったら、今度は、どんな言葉が返ってくるのだろう?
 自分の気持ちが、ばかげていることはわかっていた。
 でも、今また目の前のアイちゃんの美しい顔をまじかに見ると、また「できれば、私とつきあってほしい」と言いそうになる。
(どこまで、ぼくは、お人よしなんだ)
「なにか夢でもみていたの?うなぎが、うなぎが、と何度か言ってた。今夜の夕食は、うなぎがよかったの?」
と、アイちゃんが言った。
「本当に、クニイチはお酒に弱いんだから。それに比べて、ダイゴ先生の強いこと。同じだけお酒のんだのに、片や、お眠り、片や、サチさんとおでかけ。わたしは、残って、クニイチのお世話」
(そうか。ぼくらは4人でゴールドコーストにいるんだ)
 たしかに、ダイゴの生活は、ここ数年で変化がした。
 奥さんや子供たちと、距離ができ、毎日、クリニックからそそくさと家にもどっていく、という風ではなくなった。
 クリニックでの仕事や外でのアルバイトの仕事を、少しずつ減らして、旅行に出かける機会も増えてきていた。
 ひとりで旅行することもあれば、私とでかけることもある。
また、サックスを吹くダイゴと、デュオを組みはじめたサチさんというピアノニストの女性と、演奏旅行?するときも。
 また、ダイゴによれば、アルバイト先で、あるきっかけで、偶然に手術をする機会があって、そのときに、昔の身体感覚がよみがえって、また外科医の復帰を考えるようになってきたのだという。
 しかし、一度開業して、また外科医にもどるという道は、ほとんどない、という。開業はいわば「片道切符」なのだそうだ。
「もちろん、大きな病院で、開業する前のような外科医をやるということは考えてないよ。じゃあ、どうやって?といわれても、まだ模索中、としかいえないけどね」
 確かに、ダイゴは、次の道を模索しているようだった。
 機会があれば、それらのことについても、みなさんにお話しすることもたぶんあると思う。
 しかし、次のことは、相変わらず変わらないままだ。
私が、手がける『事件』について話すことを、ダイゴが聴いてコメントをだし、またそれに対し私が反論する。
「こういう時間は、ぼくにとって、どんなおいしいお酒や美女とすごすよりも楽しい時間だよ」
 私の気持ちもこのダイゴの言葉と一緒だ、ということも、相変わらず変わらないままだ。


エピローグ へのリンク: https://note.com/kojikoji3744/n/n6048e1b73c0c

第1章 へのリンク: アベマリア 第1章 同業者の匂い|kojikoji (note.com)

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