新しき地図 11 醸し人
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11 醸し人
1
野崎英一が、服役してから、1年が経とうとしていた。
ダイゴにとっても、野崎英一の事件は、心にずっとひっかかる、すっきりしないものだった。だが、特に、それについてさらに新しく進展するきっかけのもてないまま時が過ぎて行った。
施設長の野崎淳が死亡し、フェイクニュースで悪評がたち、倒産の危機に瀕した「のぞみ苑」は、まだ再建の途中だった。
多くの職員がやめていった。その中には、ケアマネージャーの平松美紀や、介護士の小林奈津子もふくまれていた。ダイゴ医師も嘱託医の職を辞した。
医療法人「野崎病院」は、全面的に、その再建にのりだしていた。その計画の候補のひとつに、老人ホームをやめて、老人保健施設として再出発しようというものもあったが、入居者とその家族との間の調整が難航していた。
ダイゴは、新たに、クリニックの休み時間を使って「医療刑務所」の非常勤医師をはじめた。成り手が少ないため、ダイゴの所属する市医師会経由で、募集があって、それに名乗りをあげたのである。
クリニックの仕事、そして、その合間に、私と一緒に「事件」について推理する、という日課はあいかわらず続いていた。ダイゴにいわせれば、「医療刑務所」の非常勤医師になったのは、事件解決のスキルアップとして、犯罪者の心理を観察する目的もあってのことということだった。
ダイゴと妻との間の関係もあいかわらずうまくいっていなかった。二人の子供が、大学生になり、次々と家から離れていったことも大きかった。なけなしのかすがいだった、子供という共通の話題もなくなり、ダイゴは妻から、家庭から、ますます遠ざかって行った。
ダイゴのサックスの練習は続いていた。
少し演奏ができるようになると、アマチュアの吹奏楽団にはいって演奏してみたり、そこで知り合った音楽仲間と「サックスカルテット」の演奏をしてみたりしていた。
これらは、毎週定期的に、練習があるというわけではなかった。期間を決めて、発表会にむけて練習を重ねて、発表会がおわれば、練習を終了する、というものだった。クリニックの仕事や往診や非常勤で忙しいダイゴの生活には好都合な集まりだった。
そんな中、ダイゴは、ピアニストのサチさんと二人で演奏する機会が増えていた。
サチさんは、以前「のぞみ苑」に勤めていた介護士で、まだ野崎淳が生きていたころ、「のぞみ苑」の「夏祭り」でふたりで演奏したことがあった。その後、彼女は「のぞみ苑」を退職したが、その後もダイゴとサチさんはふたりで、老人施設や養護施設でボランティア演奏を重ねていった。
彼女は、最初は、ダイゴと「デュオ」で演奏するのに乗り気ではなかった。
「私より上手なピアニスト、いくらでもいるでしょう?ダイゴは、私なんかでなく、そういう人と一緒に演奏すればいいのよ」
そのサチさんの言葉は、たぶん、本心からダイゴとは演奏したくないと思ってのものではなかった。
むしろ、「いやいや。君とじゃないとだめなんだ。大好きな君のひくピアノと一緒に、ぼくは演奏したいんだ。君以外の人とすごす時間はいらない」などとダイゴに言ってほしかったのにちがいない。
だが、アイちゃんにいわせれば、ダイゴは「とんちんかん」な返事しかしなかった。とはいえ、ぼくからいわせれば、とてもダイゴらしい返事なのだが。
ダイゴはサチさんに対して答えた。
「たとえば、サチは、外科医というものは、あるいは外科医の中には、神の手をもつような『スーパーヒーロー』がいる、と思ってない?」
「思っているわ。おまけに、ダイゴ先生、今は外科をやめてしまったけれど、手術をしていたころは、きっとそれに近い技術をもっていたに違いない、とさえ想像している」
「おやおや。ありがとう。でも、実をいうと、外科医にスーパーマンはいらないんだ」
ダイゴはサチさんにむかって、ある説明をはじめた。サチさんが、どのあたりまで、ちゃんと聞いていたかは不明であるが。
手術は、音楽や美術のように小さいころから学ぶことは重要とされてない。実際、みな20歳代後半の医学部卒業後に訓練をはじめる。
これは、人間の体を扱うから、というような倫理的な意味あいからだけじゃあない。
実は、外科手術は、そのくらい年をとってから訓練をはじめても習得できる程度のそう難しい技術ではないから、そうあわててはじめる必要はないという事実からくる。
確かに、外科医の中でも手術の上手、下手はある。でも、実は手術の上手、下手はそう大きな重要性はないんだ。その理由は、手術の結果は、体の治癒力に多くをおっているからだ。
出血が少しおおかろうが、手術時間が長かろうが(やはり時間と上手さは、ある程度関係する)少し不恰好な手術だろうが、結果は同じ。結局は、患者の体がカバーしてくれるんだ。
「よくわからないけれど。もしかしたら外科医はそうかもしれない。でも、ピアニストには、天分に恵まれた上に努力も重ね、『天才ピアニスト』とよばれる人たちはいるわ」
「でも、みなが、そういうピアニストではないだろう?」
手術に関する話には、もう一つ続きがあった。
例えば、ぼくが外科の研修医として手術を学びはじめた頃、ベテランの指導してくださった外科医がこんな質問をぼくにしたことがある。
ぼくと彼とどちらが、手術後の再発率が多いと思うか?
どちらが、合併症の割合が多いと思うか?
いつも指導してもらっている先輩の先生に、『ぼくもあなたもかわりありません』、とは答えられるはずはない。
そのいじわるな質問はひょっとしたら、俺に追いつくよう頑張れというメッセージかもしれないと思ったりした。
でも、心の中では、ぼくと彼とで、実際に手術後の再発率や合併症の割合はかわりがないと思っていた。
大きな手術をやるぶん、客観的にいえばむしろ彼の合併症の割合が多いくらいだった。
あれから時がながれ、経験を重ねてきた今、彼の言葉は頑張れというメッセージではなく、もちろん老外科医の嘆きでもない。
それは、施設として、誰が手術をしても手術後の再発率や合併症の割合はかわりがないようにしなければならないという教育や体制の大切さをいったものであった気がするんだ。
2年目の外科医も、20年目の外科医も手術成績がほぼ同じであるべきなのだ。
(少数の悪質な例を除いて)外科という看板をかかげ定期的に手術をおこなっている施設はどこでも、このようであるのが理想だし、実際それに近い風になっている。
手術や術後管理は、たとえ主治医がいるにしても、最終的にはひとりでおこなえるものでなくチーム・・・医者、看護婦、技師、体制など総合的な力による。実際、若い外科医がおかしなことをしないよう、手術には経験者が助手につき、合併症の対応についてのアドヴァイスもする。
だからこそ、若い医者でも外科医として患者の前にだせるわけだ。
外科医に名医はいらない。
その人しかできない手術、というのは適切な手術術式といえない。
そういう実験的な手術は、一部の大学病院にまかせておけばよい。
たしかに、同じく10年仕事をしてきた外科医の中に『器用な人』と『不器用な人』はいる。手術時間の長い人、短い人。出血量の多い人、少ない人。仕上がりがきれいな人、少しおおざっぱな人。メスさばきのかっこいい人、いまひとつの人。
しかし、外科医は音楽家や画家とは違う。速かろうが遅かろうが、美しかろうが美しくなかろうが、それは上下の差がつく形容詞ではなくその人の手術の『個性』にすぎない。
手術過程は千差万別でもなんでもよい。
とにかく、できるだけ合併症が少なく、再発が少ない手術ができればそれでよいし、それが一番大切なことだ。
チーム全体に力のあるところは、それが均等化されるんだ。
「要するに、何を言いたいかというと。問題は、ぼくらがふたりで演奏して、息がどこまであっているか?とか、いい雰囲気をだしているか?ってことだろう?サチとぼくはそういう意味ではうまくいっているんじゃないだろうか?」
この長いやりとりを聞いて、私とアイちゃんはふきだしそうになったのだった。
ダイゴ先生、犯罪の推理は上手かもしれないが、乙女心に対する推理はからっときし、ダメだな、と。
2
そんな、ある日、ダイゴとサチさんは、ボランティアの演奏にふたりででかけた帰り、駅裏の一軒の居酒屋に寄った。
「その店は、とても印象に残る店だ」
と、ダイゴが語っている、私も行ったことのある、ダイゴのお気に入りの店だ。
最初、その「醸し人」という名の店をダイゴがみつけたのは、食べログという、インターネットサイトだった、という。
はいってみると、この店がよくも掲載されていたものだ、と思った、という。4席のカウンター、奥に4名の個室しかない、狭い店だ。
4席のカウンターの前は、幅2席分くらいは占めそうな大きな図体の大将が、少し高くなった厨房で目の前で料理をしたものをカウンターにだす。ともすれば、大将の体の大きさに圧迫感をおぼえるほどだ。だが、彼は、有名店で修業してきました、という風はまったくない。饒舌。だが、なにか、権威に対して、ずっと反発しながらも、修行をつづけてきました、という風情があった。時々、何かに、いらだっているように見えない時もないわけではなかった。
そこがよかった。
もちろん、創作料理の味もいい。日本食中心だが、ミートソースは、すぐにでもスパゲティ屋もひらけそうなほどだ。天ぷらも、天ぷら屋、そばやうどんも麺屋がひらけそうなくらい。
図体のわりに?その料理は繊細だった。
その彼の、いら立ちと料理の繊細さの両者のアンバランスが大きな魅力であった。
予約の電話をすると、希望の日が満席のときもあるが、予約がとれず何カ月待ち、というような店ではない。値段も、一人5000円くらいのコース。ただ、ダイゴは日本酒を飲むので、サチさんとふたりで15000円くらいになる。
「醸し人」は、最初、日本酒の「醸し人九平治」から取った名前に違いない、とダイゴに連想させた。しかし、大将曰く「九平治は、最初、店にいれていたけど、自己主張が強いお酒で、料理にはどうかなあ、とおもったので、今はいれていない」。かわりに、彼がすすめてくれたお酒のひとつが「伯楽星」だった。
「伯楽星」は、2011年の東日本大震災で被災したあと、見事復活した蔵の日本酒でもあった。
お酒は、食事にあわせて、まず軽い「伯楽星」、のようなものからはじめ、「正雪」そして「悦凱陣」(しばしば、古酒の場合もあったが)という風に、徐々に重い、どっしりした味わいのものに移っていくのがよい、と大将は言った。
それから、日本酒の器。器の形、唇をつける器の縁の材質、厚さ、で日本酒の香りそして味がずいぶん異なる。
これは、実際に、その店で、いくつものの器でブラインドテストを行って、自分の鼻と舌で確認した。
また、器に注いだあとの放置時間(瓶詰めしてからの「熟成」とよばれる放置時間とは別に)によっても味が違うことも確認した。
これらも、「醸し人」の大将が、能書きをいうだけでなく、食事の最中に、実際のブラインドテストのお膳だてをしてくれたものだ。
医者に対する製薬会社の接待は10年ほど前になくなってしまったが、ダイゴはそれを受けた最後の世代だ。もちろん、「醸し人」の料理はどんな接待の料理よりおいしかった。
接待では、貸し切りも、よく経験した。料理を運んできてくれた人が、のんびりとその料理の内容を説明してくれる。しかし、料理する人が、目の前でぼくらふたりのためだけにつくり、直接、話をしてくれるという経験はなかった。
さらに、「醸し人」は1対1のもてなしであったが、それは、単にリラックスして心地よいことをめざすだけのものだけではなかった。
目の前にフライパンや鍋がぶらさがっていて、すぐそこにある冷蔵庫から下ごしらえをしたタッパーがとりだされ、まな板で切り、フライパンやレンジで火がとおされ、目の前で盛り付けされる。
それは、時には、闘い?というような緊張感もある、広い意味でのもてなしだった。目の前で、すべてをさらけだし、料理をつくり、話す、ことは、大将にとっても真剣勝負だったに違いない。
もちろん、食材も、特殊な飼育の豚、朝摘みとうもろこし、といっためずらしいものもあったが、大将は、少し早口になってはずかしそうに説明した。だから、細かい名前は忘れてしまった。しかし、味は覚えている。
そして、デザートは、スイーツにうるさいサチさんがいつも楽しみにしていた。味はおいしいし、プロなのに、子供がケーキ作りを一生懸命やっている風がかわいい、とサチさんはいつも、笑いころげ、そのデザートを毎回楽しみにしていた。
そして、この「醸し人」で、ダイゴは、「あの日本酒」に出会ったというのだった。
ダイゴは言った。
「大将から、『最近、売り出し中のお酒です。私も、これはおいしいと思います』と紹介されて飲んだ日本酒の味にぼくは、びっくりした。
以前、『のぞみ苑』で、『野崎酒造の最後の酒です』といって上原岳人が飲ませてくれた日本酒があったろう?その味にそっくりなんだ」
ダイゴは、仕事後、クリニックの2Fでの夕食のときに、私とアイちゃんに、その酒を飲ませてくれた。サチさんも同席していたが、車の運転があるというので飲まなかった。
確かに、おいしいことはわかった。だが、私もアイちゃんも、その「野崎酒造の最後の酒」を飲んだことはない。それと同じ味なのかどうかは、わかるはずもない。
だが、ダイゴには自信があるようだった。
さらに、別の話も付け加えた。
「1年前、『のぞみ苑』で上原岳人の父親の上原春雄が施設で老衰でなくなったときに、それは『虐待死』だったというフェイクニュースがネットで流れただろう?そして、その虐待した犯人は、小林奈津子だ、と名指しまでされていた。
誰かはわからないが、逆恨みなのか愉快犯なのか、それもわからないが、当時施設で職員をしていた誰かが流したものだと思う。
そのとき、上原春雄の部屋にあった、施設がとりつけた監視カメラとは別のもう一台の監視カメラからとった録画動画を使って「上原春雄の死は虐待死ではない」と反証しようとしていた、書き込みがひとつあった。その監視カメラは、おそらく父親の部屋にお見舞いに来た時、上原岳人がつけたに違いない。彼は、情報工学科を卒業してネットにも詳しい。難しい作業ではない。
だが、たとえ、仮にそうだとしても、なんといっても、彼は交通事故でもう死んでいた。なので、そのときは、それ以上追及しなかった。上原岳人が生前、その監視カメラを第三者にみせていたんだろうか?と。
だが、今、市場に出回り始めた話題のこの日本酒をのんだとき、『これは、あの廃業した野崎酒造の日本酒の同じ味だ』と思うと同時に、『この日本酒を新たにつくれるのは、上原岳人しかいない』と思わざるをえなかった。あの『のぞみ苑』での宴会のとき、野崎酒蔵は既に廃業してしまったが、日本酒の作り方を自分で研究している、上原岳人はそう言っていたんだ。
そうなると、上原岳人は交通事故で死んだのではなく、なんらかの方法で生きているのではないか?という方の仮説を検討しはじめざるをえないんだ。
もし、上原岳人が、あの交通事故の後で死なずに、生きているとしたら?
上原岳人が、上原春雄の死後に現れたネット上のフェイクニュースにより汚名を着せられた、のぞみ苑、あるいは幼馴染の小林奈津子介護士の無実を示す目的で、自分が独自に、父、上原春雄をモニターしていた監視カメラの録画動画をアップした、ということは考えやすい。
そして、野崎酒造の日本酒の味を再現した、市場に出回りはじめたこの日本酒は、未だ生存している、上原岳人が醸したものというのならすんなり納得できる」
「じゃあ、どうやったら、上原岳人が、あの交通事故の後で生きていると説明できるの?燃えた車の中には、野崎淳と上原岳人の二人の死体が確認されたんでしょ?」
そう尋ねたのは、サチさんだった。
もちろん、私もアイちゃんの疑問も同じに決まっていた。
「そのとおりだ。ぼくの仮説はばかげているということは、ぼくもわかっている。でも、ぼくは、この件について、もう一度調査をやりなおしたいんだ。実は、ずっと、気になっていたけど、再調査をするきっかけがつかめずにいた。だが、今回の、この日本酒を味わって、再調査をやろうとする気持ちに強くかられたんだ。
クニイチ君、再調査、つきあってくれるよね」
実をいうと、私はこのとき、ダイゴは答えを既につかんでいるに違いない、と直観していた。
どうやったら、上原岳人が、あの交通事故の後で生きていると説明できるか?ということの答えを。
そして、もし、上原岳人が今も生きているとしたら、あの交通事故は、上原岳人による野崎淳の殺人事件へと、様相をかえる。
もう、ダイゴと私は長いつきあいになる。
彼が、本気で動こうとするときは、彼の推理を検証しようとするときだけだ。
私たちのように、「いろいろな所におもむき、できるだけ多くの事実をかき集めてきた後、その中の情報をとりだして推理する」という方法をダイゴはとらないのだ。
だから、クリニックにいて、私の集めてくる情報をふむふむと聞いているだけの、書斎探偵のような態度でいられるのだ。
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