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⑩「シン・開業医心得」 第1章の2より 外科を専攻して学んだのは手術の方法だけではなかった

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「シン・開業医心得」 目次

プロローグ
第1章 シン・開業医心得 
 1 世間で時々聞く「医者に殺されないように」という文句に殺されないように
 2 開業医での経験
第2章 開業してようやくわかる医療制度の問題点
 1 たまに話題になるが、よく知られていないことがらについて
 2 医療、介護制度の盲点
エピローグ 提言
 

第1章の2より 

外科を専攻して学んだのは手術の方法だけではなかった
  
① 疾患あるいは病態には、それぞれが持つ時間がある。

  例えば、手術後の傷が治癒していく時間。
 抗がん剤で腫瘍が消えていったり、あるいは薬が効かずに腫瘍が増殖していく時間。
 緩和医療で人の命が失われていく時間。
 そのスピードは疾患によって違う。
 そして、すべてに例外はある。
(男女、年齢でなりやすい病気があっても、それには必ず例外があるように)
 またそのスピードが異常に早い場合(異常に早く病状が進行する場合。劇症型、とよばれたりすることもある)しばしば「みおとしがあったのでは?」と問題になりやすい。ただ、その多くは、事前に予測することがむずかしい。
 
 それらは、勤務医のときには「クリニカルパス」というような書類にまとめたりした。そこまで、大仰なものでなくても、基本的な考えは共通だ。
 一般の人と医療者の理解の違いの大きなものは、一般の人は、身近な時間経過でしか病態を考えられないが、医療者はその病態の最後を知っているので、それぞれの疾患あるいは病態の固有の時間を把握している、というところにある。それが「専門家」という意味でもある。
 開業医になって、勤務医のころは外科の疾患しか知らなかったぼくは、その理解を応用して、対象を少しずつ広げた。
 
 皮膚の炎症が強くなり、それが薬で治まっていく時間(いわゆる「湿疹三角」)。
 パーキンソン病や、認知症が、進行していく時間。
 老人の症状が、重症であっても、表に出にくいという感触。
 人が命を失うまでの時間。例えば、3.3.3の法則。
 
② 人間の体の構造のとらえ方~体の外と内、そしてその境界~
 
 それは、細かい、個々の臓器や機能を知ることだけではない知識だ。極端なことをいえば、個々の臓器の解剖やその機能は、本やネットを見れば、すぐに調べられることだ。
 それは、調べてもでてこない知識だ。
 それは、例えば、何万もの薬を、個々にすべてを知らなくても、どんな系統の薬があるか、頭を整理しておけば、あとは「今日の治療薬」やネットを調べれば、いいだけのことだ、ということに似ている。そういう状態は、何万もの薬を知っていると同じといってよいのだ。
 同じような感覚で、人の体の構造について、教科書には載っていないような理解ができる。
 これは、勤務医で、長い間外科医をやっていたことで、はじめて身につけることができた感覚だ。
 単なる、医療知識や技術の習得とは違うものだ。
 
 体の、外と内
 内分泌と外分泌
 消化管の内と外
 腹腔、胸腔、後腹膜、縦隔
 喉頭と咽頭
 
 体の外と内の境界線上には炎症がおきやすい。
 常に、外からの刺激により傷ついてはなおり、なおってはまた傷つく、が繰り返す場所だ。だが、それは、内と外の境界にあるから、本来的にそういう場所なのだ。
 それは、皮膚だったり、消化管粘膜だったり(例えば、胃の中は、一見、体の内部と勘違いされがちだが、体の外部だ)気道粘膜だったりする(胃の内部と同じように、気道内部も、体の外だ)。
 言葉を変えれば、皮膚炎、胃炎、気管支炎、はおきるべくして起こるもので、問題なのは、その「程度の軽重」なのだ。
 
 消化管が穿孔すると、体の外にあった消化液が、体の内部の腹腔内にはいりこみ、そこで「腹膜炎」がおこる。
(この腹腔という体の内部は、手術によっても、外とつながりが生じ、その結果「癒着」をおこしたりする)
 ところで、ここで問題。
 この腹腔内には胃や腸や肝臓や腎臓があるが、それら臓器と腹腔の間には何かあるのでしょうか?真空なのでしょうか?
 また、腹腔は自然な状態では外界とつながっていないのですが、女性はわずかに外界とつながる経路があります。それはどこでしょうか?
 
 さて、この体の外と内の境界を越えて炎症が広がると、体の内である「臓器」の障害がおこる。そこでの、体による「火事」に対する「消火作業」は主に白血球を介しおこなわれる。
 その最初の消火作業は「臓器」局地的なものだが、その際、全身に影響が少し及ぶ。それは、消火作業のため白血球がそこで放出した「サイトカイン」の一部が、臓器外に流出することで発生する発熱や関節痛などである。これは、比喩的にいえば、局所で火事が起こった際に飛ぶ「火の粉」ともいえる。
 もし、火事そのものが局所で制御できなくなると、危機は臓器を超え、全身にひろがる。いわゆる「敗血症」の状態である。影響は、最初の火事の現場とは違う臓器、例えば、肝、腎、心などへ影響する。この影響は人によって違うが、しなしば、その人の体の中で最も弱い(予備能がない)臓器から順に傷んでいく。
 
③ 閾値、あるいは可逆性と非可逆性、と言う考え 
 
 「3、3、3」ルールというものをご存じだろうか?
 これは、「呼吸をしなければ3分、水をのまなければ3日、食べ物をたべなければ3週間、で人の命は失われる」というものだ。「呼吸をしなければ3分」というのはAEDの必要性で、「水をのまなければ3日」というのは、災害時72時間以上救助されないと存命率は下がる、ということで、一般的にも多少なじみがあるかもしれない。しかし、最後の「食物がなければ3週間」というのは、あまり意識されてないと思う。
これは、「高齢者の老衰」と関係する。
 ひとつの例を示そう。
 Aさん。85歳の男性。要介護5。くりかえす脳梗塞で、くりかえし入退院をくりかえしているうちに、廃用症候群。昨年、11月に病院より施設に入居。そのときは、胃ろうを挿入されていた。
 嚥下筋のおとろえ(脳梗塞の後遺症+低栄養)のため、誤嚥性肺炎をおこしやすいので食事を出すのは禁忌、と病院で診断され、病院では食事はなし。施設では、可能な経口摂取だけで、輸液は基本おこなわずに「看取り」という方針となった。
 奇妙なことだったのは、頻回に唾液を吸引する必要はなかった、ということだった。唾液は、1日に計500mlから1000mlでてきて、それをのみこまなければならない。唾液さえのみこめないと、喉の唾液がたまり、1日に何回もそれを外から吸引しなければならない(これを「吸痰」というところが公的機関をふくめてほとんどだが、正確には、「唾液吸引」といわねばならない)が、彼は、自分で唾液はのみこめていた。
 唾液を呑み込むことのできるAさんは、施設にはいると、水分や、嚥下食というものを少しずつ摂取できた。前の病院では、機械的に「食事を出すのは禁忌」とされていたのではないか?
 だが、Aさんは、12月13日に急に意識を失った。傍目には、急に、だったかもしれないが、見えないところで、その準備は進んでいた。「食物をとらねば3週間」というが、実際の場面では、少しずつ、食べ物は摂っている。しかし、必要量までは届かない。少しずつ、貯金からお金がおろされ残高が減っていくように、彼の「3週間」は数カ月まで延長された。しかし、ついには、貯金はなくなり、12月13日がきたのである。
 
 これが、閾値、という考え方のひとつある。
 見えないところで、人の体は徐々に弱っていく。
 だが、実際は、ある限界を超えるまでは正常で、ある閾値をこえると、急に悪化したように、みえてしまうのである。
 これは、老衰だけにかぎらない。
 腎不全、肝不全、心不全、いずれも、ある閾値を超えると、急に悪化するのである。
 あるいは観方をかえれば、「予備能が低下」している臓器は、少しの悪因子(例えば、風邪をひいただけで)で、その「閾値」を超えてしまい、致命的になる(肺炎から呼吸不全になる)、ということも同じ意味である。
「いつ亡くなるのか」が予測しづらいのはこのこととも関係がある。
 
 このような過程は、「急激に悪化したかのようにみえる」例だけでなく、例えば創傷治癒の過程でもみられる。傷は、日にち(時間)と比例して少しずつなおっていく、というより、長い間かわりばえのない時間が経過したのち「一気に」なおる。典型的なのは、縫合不全のときの穴のふさがり方。あるいは、感染がおきた創部が、閉じるときもそうである。ある日、突然ふさがる(閉じる)。
 
 他に、この閾値という言葉は、可逆性があることと不可逆なもの、との境界線として用いることもできる。
 可逆性と不可逆性ということのわかりやすい例として、皮膚の熱傷の例をあげてみよう。
 熱傷によって、赤く傷んだ皮膚。その後、その中心部分は黒くなり脱落するが、その周辺部は赤味がとれもとの皮膚にもどる。中心分は、その熱による組織の傷み方が不可逆的で、その周辺部は可逆的だった、ということだ。その境界、閾値、というのがある。
 例えば、心臓あるいは脳への血管が閉塞し、心臓組織あるいは脳組織が「虚血」により痛むケース(いわゆる、心筋梗塞や脳梗塞)。その組織の、どの範囲が不可逆的に「壊死」するのか?どの範囲が可逆的に「回復」するのか?その範囲は、ケースバイケースで、おおよそのことはわかるが、その厳密な基準ははっきりしないが、なんらかの閾値がそこにあるだろうことはまちがいない。
 あるいは、肺炎で、呼吸器をつけてICU入室の患者さん。炎症により肺が痛み、肺の予備能がなくなった(肺としての機能が低下しすぎた)とき、呼吸器によって肺の補助をおこなう。その後、傷んだ肺の一部は、時間が経つと可逆的に回復するが、一部はいくら時間が経とうが不可逆的に回復しない。その回復の程度が、ある閾値を超えて大きければ、その患者は呼吸器から離脱できる。だが、回復しても肺機能がその閾値以下しか残っていなければ、呼吸器から離脱できない(そして、たとえば、呼吸器をはずすかどうか?の相談となる)。
 これは心臓や肝臓でも同じことである。
 末期心不全、肝硬変、などの言葉は、残存組織ではその臓器(ひいては生命が)維持できないほど「予備能が低下」(あるは、「代償不可能」)した状態である。だめになった細胞には、可逆性はなく、不可逆的に痛んだ状態なのである。
 
     *
 
 確かに、内科開業医の主な仕事は、予防接種をすることと、冬季のインフルエンザの診療の二つであることが、開業後にわかった。また、実際に開業医が診療に使う知識や技術は、医師になって3年ほどの期間で、だれもが習得しているレベルで十分対応できるものだということも間違いなかった。
 
 でも、それだけではない、ということも間違いない。
 


①へのリンク: ①「シン・開業医心得」 プロローグ|kojikoji (note.com)
⑪ヘのリンク: ⑪シン・開業医心得」 第2章の1より訪問診療  |kojikoji (note.com)

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