
⑩「コロナウイルスのパンデミックをふりかえって~ある地方開業医の視点~」第4章 ある視点 3 臓器予備能、あるいは閾値、と言う考え
その他の、こじこうじの作品へのリンクは
太陽の秘密 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon
アベマリア | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon
アペリチッタの弟子たち | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon
Youtubeに紙芝居絵本「ものほしざお」があります
https://youtu.be/iGRwUov3O74?si=bH2ZszSCB6b6fquq
3 臓器予備能、あるいは閾値、と言う考え
「3、3、3」ルールというものをご存じだろうか?
これは、「呼吸をしなければ3分、水をのまなければ3日、食べ物をたべなければ3週間、で人の命は失われる」というものだ。「呼吸をしなければ3分」というのはAEDの必要性で、「水をのまなければ3日」というのは、災害時72時間以上救助されないと存命率は下がる、ということで、一般的にも多少なじみがあるかもしれない。しかし、最後の「食物がなければ3週間」というのは、あまり意識されてないと思う。
これは、「高齢者の老衰」と関係する。
ひとつの例を示そう。
Aさん。85歳の男性。要介護5。くりかえす脳梗塞で、くりかえし入退院をくりかえしているうちに、廃用症候群。昨年、11月に病院より施設に入居。そのときは、胃ろうを挿入されていた。
嚥下筋のおとろえ(脳梗塞の後遺症+低栄養)のため、誤嚥性肺炎をおこしやすいので食事を出すのは禁忌、と病院で診断され、病院では食事はなし。
ただ、奇妙なことは、頻回に唾液を吸引する必要はなかった、ということだった。唾液は、1日に計500mlから1000mlでてきて、それをのみこまなければならない。唾液さえのみこめないと、喉の唾液がたまり、1日に何回もそれを外から吸引しなければならない(これを「吸痰」というところが公的機関をふくめてほとんどだが、正確には、「唾液吸引」といわねばならない)が、彼は、自分で唾液はのみこめていた。
唾液を呑み込むことのできるAさんは、施設にはいると、水分や、嚥下食というものを少しずつ摂取できた。前の病院では、機械的に「食事を出すのは禁忌」とされていたのではないか?
だが、Aさんは、12月13日に急に意識を失った。傍目には、急に、だったかもしれないが、見えないところで、その準備は進んでいた。「食物をとらねば3週間」というが、実際の場面では、少しずつ、食べ物は摂っている。しかし、必要量までは届かない。少しずつ、貯金からお金がおろされ残高が減っていくように、彼の「3週間」は数カ月まで延長された。しかし、ついには、貯金はなくなり、12月13日がきたのである。
12月13日に急変したようにみえるが、実は、体の予備能が次第に減り、ある閾値まで体の力が落ちることで体を維持することができなくなったので「急変した」かのようにみえるだけなのだ。
この、体の予備能があるか、客観的にとらえにくいことが、医者が「死期」を予想できないことと関係する。
病人でも、生活で、体の予備能がある程度回復するので、喪失と回復のプラスマイナスは、今の医学では正式に評価できないのだ。
*
見えないところで、人の体は徐々に弱っていく。
だが、実際は、ある限界を超えるまでは見た目は正常で、ある閾値をこえると、急に悪化したように、みえるのである。
これは老衰に限らない。
腎臓にも心臓にも肝臓にも、実は「予備能」がある。だから、たとえ、それらの臓器がダメージをうけても、その予備能をつかうことで、本来の機能は保たれたまま普通にすごせる。
有名な例は、生体人移植や生体肝移植だろう。人は腎臓が2個でなく1個でも生きていく。肝臓は半分あれば生きていける。
しかし、そのとき、この「予備能」はもう少なくなってしまうのだ。そのリスクを生体臓器移植のドナーもレシピエントの両者ともが負うのだ。
時々耳にする腎不全、肝不全、心不全、とはその予備能が低下した状態だ。それぞれの予備能を示す検査値はそれぞれ存在する。これらの状態のとき、何もなければ普通に生活しているが、なにか「こと」がおきたとき、いずれも、ある閾値を超えると、急に悪化するのである。
たとえば、「肺の予備能が低下」している人は、少しの悪因子(例えば、風邪をひいただけで)で致命的になる(肺炎から呼吸不全になる)、ということも同じ意味である。
とはいえ、多くの場合、「すこしだけ」予備能がおちただけで心配ないのに「心臓が悪い」「肝臓が悪い」「腎臓が悪い」といわれた、と心配するかたは少なくない。
「どの程度」予備能がおちたか?で、危険度はかなり違うのに。
これは、伝える医師や、パラメヂカル(多くのパラメヂカルは、医者よりも、患者を脅かす)の伝え方に工夫がいる。
コロナウイルスのデルタ株が流行していたころ、ニュースで人工心肺を使う(いわゆるECMO)という報道がけっこうおこなわれた。
人工心肺を使うことは、決して新しい方法ではない。たとえば心臓の手術ではいつもおこなわれている。呼吸器に至っては、全身麻酔の手術を呼吸器なしにおこなうことは無理な話だ。
だが、なぜ、このECMOあるいは、人工呼吸器で、肺炎が「治る」のか?ということは意外に知られていない。
実は、人工呼吸器やECMOでウイルス量を減らしているわけではないのだ。
ウイルスによって破壊された肺が、もう予備能どころか最低限の機能も保てない、ことがある。
そんなとき、人工呼吸器、あるいはECMOで人工的に酸素を供給しなければ生命は維持できない。
かりに、薬により、あるいはその人の免疫によって体のウイルスがゼロになったとしよう(例えば、コロナウイルス肺炎では、初期のころ薬はなかったので、呼吸器やECMOを使いつつ、ウイルスを体からなくしたのは、その人のもつ免疫力だ。このような、「薬がない」ケースは、重症例で決して少なくない)。
だが、これだけでは、治癒ではない。
ウイルスによってダメージをうけた肺が「自然に」回復して、機能をとりもどすのを待たねばならない。
だから、中には、「回復できない」細胞も一部もある。再生機能までダメージをうけると、いつまでたっても、再生がなされないのだ。
これは、言葉をかえれば、再生の「不可逆性」である。
つまり、ダメージが軽ければ「可逆的に」そのダメージから回復できる。だが、ひどいダメージの場合、その回復は「非可逆的」で、回復できないこともあるのだ。
いつまでたっても、その臓器の再生(回復)が不可能なとき、その場合、「人工呼吸器やECMOを外しますか?」と家族は医療者に説明をうけるのだ。
第①話へのリンク:①「コロナウイルスのパンデミックをふりかえって~ある地方開業医の視点~」 第1章 コロナウイルスパンデミックは、今まで隠れていた現実を、いろいろ垣間見せ、あぶり|kojikoji (note.com)