新しき地図 13 医療刑務所(1)
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13 医療刑務所
1
記憶喪失によって記憶にないにせよ、自分の父親を殺害した罪で、野崎英一は、懲役2年の刑に服した。
刑務所の中で、野崎英一は、記憶にない野崎英一が、なぜ、自分の父親を殺したのか、考えた。
記憶にない者の気持ちを考える。
それは、一般論として、殺人を犯すものの気持ちを考えることに近いものだった。
自分の経験をふりかえり、反省することは、記憶のない野崎英一にはできないことだったからだ。
それでも、こんな考えに、たどりついた。
殺人というのは、「他殺」の方法としては幼稚で単純なものではないか?だから17才の少年でも思いつく。殺人者は、どんなにその計画性が巧みであっても、本人自身はきっと幼稚なのだ。
「他殺」の方法は、殺人や傷害以外に様々な方法がある。恨み、そして復讐の物語は、時に我々の共感をよぶ。「他殺」について、善悪の尺度のみをもってすますことはできないだろう。そして、他人に苦痛を最も与える方法が、殺人や傷害だけであるとは、思えなかった。
幼稚で単純な方法だけあって、殺人を試みても、(様々な報道や教本とは裏腹に)人は容易には死なない。病魔におかされた人の生命力には胸うたれるものがある。大量の睡眠薬服用後でも、ほとんどの場合、長い昏睡のあと何事もなかったかのように目覚める。手首の動脈を切っても、血圧の低下とともに、ふきだす血の勢いはゆるまり、自然に止血されてしてしまう。要するに、殺人をするためには、それなりの専門知識を要する。特に日本では、非力な人でもてっとりばやく殺人を成功させる道具である、銃や毒物の入手は困難で、実際にはなかなか使えない。
ただ、一番の問題は、容易でなくても、時に、この幼稚な「他殺」の方法が成立してしまうことがあるということなのだ。
野崎英一が獄中に読んだ本(*)によれば、殺人を犯した者の数は、他国と比較すると、日本では断然少ないという。
日本全体では年間に殺人事件は1000件以下という。ちなみに、窃盗は刑法が適応されたものだけで98万件という。窃盗は、警察につかまらなかったものをいれれば、もっと多いのはいうまでもない。
また殺人に関して付け加えれば、TVや小説上では、ひとつのドラマごとに一人や二人は殺されている。フィクションを加えた場合、現実とは違い、世の中は殺人だらけということになる。そこでは、窃盗は「つまらない」もの、かのようにあつかわれる。
(*)「入門犯罪心理学」原田隆之(ちくま新書)
実際、野崎英一がはいった刑務所では、殺人犯の顔を見ることはまずなかった。死刑の執行など、もっと重い刑の人がいくところが別にあるのだろう。その点、殺人犯としてそこにいる野崎英一自身が、その刑務所では珍しい犯罪歴の持ち主だった。
新たに刑務所にはいる人々の第一位は窃盗で35%、第二位が覚せい剤25%、第三位が詐欺8%という。
それは、野崎英一が、刑務所で過ごしたときの印象に一致していた。その他に性犯罪者などもいた。性犯罪者は、刑務所という犯罪者の世界の中の面々からみても、「卑しい奴」と低くみられて軽蔑されていた。
「殺人事件のほとんどが家族や友人の間でおきている。最も多いのは、親が子を殺す場合で全体の35%。友人知人に殺されたケースが19%、配偶者に殺されたケースが11%。面識のない相手に殺されたケースは11%」
これによれば、面識のない相手に殺されたケースは、全国で年間100人ほどいる計算になる。だが、「誰でもいいから殺したかった」という人の犠牲者になるケースよりも、事件の現場にたまたま遭遇してそれにまきこまれた、というケースのほうが多いに違いない。
「殺人事件のほとんどが家族や友人の間でおきている」ということは、殺人において、その「動機」が重要という意味だ。もちろん、殺人が成立する条件は、この「動機」だけではない。他には、「殺人方法の知識習得」「殺人を実際おこす体力」などが必要となるだろう。
また、殺人事件において「動機」が重要というが、その「動機」は、たえず揺れ動くはずだ。だから、「動機」に加えて、なにか「衝動」が起きた時に、たまたま成立してしまった、のが殺人なのではないか?その「衝動」は、15秒ほどすれば消える短時間のものもあれば、妄想からくる、それを晴らす外からの刺激がなければ、長期間つづく「衝動」もあることだろう。
いずれにせよ、「動機」は過去の記憶と間違いなく関係している。記憶は、楽しいものでも悲しいものでもあり、生きる原動力になることもあれば、人を殺す動機にもなるのだ。
そんな、自分の持っていた、父親を殺そうと思うほどの強い「動機」も、記憶が失われるとともに、あっけなく自分から消えてしまった。
そもそも、まだ記憶を積み重ねて間もない野崎英一には、殺人を犯すほどの強い「動機」が記憶によって形成されるということ自体が、ぴんとこなかったのだった。
ただ、「記憶には、意味記憶、自伝的記憶、手続き記憶、感情記憶の4種類がある」と学んだ野崎英一は、殺人について次のことを考えた。
これは、4つの記憶の中の「感情記憶」に関わることでもあった。感情記憶は定義がむずかしいが、「知らない人でも優しく接してもらったら安心する」といった、倫理的な反応も中に含んでいる。
もしかしたら、殺人がおこなわれるその時、殺される人は、殺す人にとって「物」に他ならないのではないか?他人が「物」にみえる一種の幻覚は、日常茶飯事のことだ。忙しかったり、ぼんやりしたり、自分の思いこみが強かったりしているとき、既に、他人は「物」に見えている。でも、ゆっくり相手の顔をみてしゃべったり、一緒に仕事をしたりしていると、日常の活動の中では、すぐに、その「物」は消えてしまう。
だが、殺人のまさにその瞬間、他人は「物」としてみえている。だからこそ、殺「人」は可能なのだ。このとき、「人」を殺したわけではなく、「物」を壊しただけのことだ。
すなわち、殺人は不可能だ。
それが、野崎英一が刑務所の中で、ひとり考えた末の結論だった。
人が「物」としてみえる、ということは「人を物みたいにあつかう」というようなことでもある。
特に、この刑務所内では、「物」のように、職員や同じ死刑囚たちからあつかわれる、と野崎自身が感じる機会が、多かった。もちろん、そして殺されそうになった、というわけではない。
自分の記憶が始まった「のぞみ苑」にいたころと比べて、そう感じられる機会が多かったのである。
それだからこそ「刑務所入所」というのが罰になるわけだ。
しかたがない。それを悲しむのは野暮というものだ。
野崎英一は、当初、一般的な刑務所に入ったが、刑期の最後の半年は、そこで選ばれて、「医療刑務所」の囚人の「お世話がかり」として、医療刑務所に移った。囚人が囚人を、刑を受けながらお世話する。これも、「懲役」のひとつなのである。
その医療刑務所で、野崎英一は、再び、ダイゴ医師と偶然に遭遇した。ダイゴ医師は、「のぞみ苑」が倒産しかけ嘱託医をやめたあと、ここの医療刑務所の非常勤医師として働きはじめていたのである。
一般的な刑務所にも医者は「矯正医官」という肩がきで、施設内の診療所兼保健所のような役割をしている医務課に勤めている。
一方、ここ医療刑務所は、主に、「知的」障害者で、罪を犯した者が収容されている。彼らは、刑務所の外の社会でもそうだったように、一般的な刑務所の内の社会でも適応が難しいのである。そのための「医療刑務所」であった。そして医療刑務所の所長は医師である。
殺風景な、コンクリートの壁でかこまれた「外来」に、受刑者の野崎英一が、お世話する「知的」受刑者をつれていくと、そこにダイゴ医師はいた。
その受刑者の足の親指は、靴が小さいのか、足が横から圧迫され、爪とその横の皮膚がこすれて、皮膚が傷つき、そこから細菌がはいって炎症をおこしていた(「ひょう阻」という病名らしい)。
ダイゴは、抗生剤の投与を看護師に指示した。
空き時間に野崎英一とダイゴは立ち話をした。
「また、ダイゴ先生がどうしてここに?」
「個人的なことをいえば、今、クリニックの仕事に興味がもてず、いろいろ模索しているということになるが。強いて言えば・・・犯罪ドラマでは、犯人が逮捕されればそれで目でたし目でたし。だけれども、現実はそこからはじまるだろう?ぼくも、推理しているだけじゃあなく、犯人のその後のことをと少しのぞいてみたいと思ってね」
周到な計画や犯罪の証拠を隠すための工夫をするのは、犯罪小説の中だけであり、現実の殺人犯はそんなことはしない。みつからないと安易に考えるからこそ、事件に及ぶのである。遺体や凶器を無防備に遺棄する。アリバイづくりもいい加減だ。
特に、ここ医療刑務所の多くの犯罪歴は「窃盗」「万引き」だが、知的障害者のこと、そんな隠ぺい工作のような、むずかしいことは考えられない。
ちなみに、精神障害と貧困が犯罪と関連性が高いという「神話」は、統計的に否定されている。
中には、『ここでまじめに働いていたら、ずっとここにおいてもらえるかな?』と言いだす者がいる。高齢者や精神障害者にとって、ここの外の世界のほうがずっと過酷なのであろう。
だから、刑務所を出所して、すぐに近くの飲食店で無銭飲食をして、懲役刑となり、また刑務所にもどってくるというケースはめずらしくない。彼らにとっては刑務所のほうが居心地いいのだろう。
雨露はしのげるし、きちっと三食食べることも、風呂にはいることもできる。病気になれば診てもらえるし、ひとりで寂しいおもいもすることもない。
刑務所の一部が福祉施設の代替施設となっているのが現状なのである。
それだけではない。中には、刑務所を、旅行代理店と勘違いするものもいるらしい。
「先生、私、これまで関東、関西、九州の刑務所で務めていたんで、今度は北海道でお願いします。そこは、暖房が暖かくて、食堂では現地でとれた新鮮でおいしいものが並ぶって、みんなが噂していますから」
「ところで、野崎さん、少しは記憶がもどったかい?」
と、ダイゴが聞いてきた。
「いいや。まったくだ。もうこれに関してはあきらめている。ぼくは、『のぞみ苑』にはいった以降の記憶の中で生きていく覚悟ができたよ」
野崎英一は、ダイゴの問いにそう答えた。
「一般刑務所から医療刑務所にやってきて、何か違いは感じるかい?」
「知的障害は、精神障害や身体障害にくらべて回復することはまずないんだな、と思いましたよ。一般の刑務所にいた時は、精神障害者ばかりだったから。いや、私が言っているのは、前の刑務所の囚人たち全般のことを比喩的に言っているから、ダイゴ先生のような専門家がいう精神障害者の定義とは違っていると思いますが」
「いや、ぼくも、専門家ではない。専門は外科だよ。でも、ここの医療刑務所の所長は、精神科だから、専門だよ。他に、内科の先生が常勤でいる。常勤といっても、しばしば、大学病院で基礎医学の実験に行っているんだけどね。生活の糧としてここに来ている面はもちろんある。ぼくは、いわば、彼が、不在のときの、留守番役のような非常勤だよ」
「クリニックは?」
「相変わらずさ。泣かず飛ばず。こういうアルバイトは、収入としても助かるよ」
「精神障害や身体障害は回復することがある、とさっき、自分で言ったものの。でも、実際のところ『のぞみ苑』でみた身体障害者は、回復の見込みなかったな」
「お年寄りだしかたがないよ」
「これも、実は、ですが。一般刑務所でみた『精神障害者』は、知的障害者に比べれば回復する可能性あると自分でさっき言ったけど、結局これも回復の見込み、厳しいケース、多かったです」
「こちらも年をとるほど、難しくなるね。でも、回復しなくても、精神活動の元気がなくなり、自分で思うように身体が動けなくなれば、まちがった思いこみやこだわりも、周囲への影響が小さくなってくるものさ」
「『のぞみ苑』の認知症患者さんのように、ってことですね」
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