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BB ⑨(最終) ~BB (その2)~

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BB (その2)

 ぼくは、学生のおわりから数年間、ヨーロッパのパリにいた。
「もし行くなら、二度と帰ってこないで」
 最後の瀬戸際まで、その当時からつきあいだしたAに言われながら、ぼくは出発した。

 当時、ぼくの体のまわりには、彼女であるAの体にとりついていた鳥の数が増えつつあった。その新しい鳥は、もともとぼくの体の周囲にいた鳥に猛然と攻撃をしかけてきていた。彼女が、発する言葉は、彼女が発したのか、新しくとりついてきた鳥が発したのか、もうぼくには判然としないほどだった。そんな決して楽でない(むしろつらい)状態からぬけるためにも、ちょうどいいタイミングの出発だった。
 だが、ふりかえれば、実は、このパリに行き、まもなく泥棒稼業に手をそめたこの時期が、唯一、ぼくのまわりの寄生生物が一番おとなしくしていた時期だったともいえる。
 パリでは、決していい暮らしではなかった。泥棒稼業をするくらいだから。明日、暮らしていくお金をどうしよう、そんな日々が続いた。だが、寄生生物に悩まされなかったという点で、ぼくにとって、一番気が楽なころだった、ともいえた。
 それは、外国にいて、言葉が不自由だったことと関係しているかもしれない。とすれば、自由な言語の使用は、自分の体にまとわりつく寄生生物の発生と関係しているような気がする。同じことを、いいかえれば、言葉が自由すぎると寄生生物に多くとりつかれるのかもしれない。異国での、言語の不自由さが、ぼくを寄生生物から自由にしてくれた。 

 ぼくはパリから帰国したのち、興信所につとめるようになった。そして「興信所」の仕事をするにあたって、人にまとわりつく寄生生物がみえるというぼくの能力は、有用だった気がする。
 一方、ぼくは、いわば「社会人」を遅ればせながらはじめたわけなのだが、今まで、学生生活とか外国生活で、あまり多くの「社会人」をみてこなかったぼくは、そこで、「社会人」とよばれる人には、各個人それぞれの寄生生物に加えて、ほぼすべての人に共通の、ある寄生生物がその体の周囲に存在していることに気づいた。
 いや、もう少しく詳しく言えば、その寄生生物そのものの姿は、みえなかった。見えるのが、単なる「体に生えていて動かない」植物のようなものだけだった。ぼくはそれを「タンポポの木」と呼んでいる。
 その「タンポポの木」は、それがある人の欲望にあわせて、大きくなったり小さくなったりしていた。なので、その大きさ、本数は、一般に、金持ち>貧乏人、だ。だが、中には、金持ちなのに小さなタンポポ、貧乏な人なのに大きいタンポポ、という場合もある。 

 やがて、ぼくは再び絵を描くようになり、画家として暮らしていくようになったのだが、その、「社会人」共通の「タンポポの木」のことは、ぼくの頭から消えることはなかった。
 そして、ついにぼくは、この植物の種をまいた、「社会人」みんなに共通する寄生生物が、「タンポポの木」とは別に、彼らの体のまわりに居るに違いない、と考えるようになった。そうでなくては、この「タンポポの木」の説明がつかない。
 このみえる「タンポポの木」は、人がまとう寄生生物がみえるぼくにさえ見えない寄生生物が、今の世の中にいるのではないか?という証拠だ。  
 見えないものが確かにいる痕跡だ。
 実は、その「見えない」寄生生物は、昔、ぼくが小さい頃、まだ世界がこんな風に経済的に豊かでなかった時代、ぼくが若かったころ大好きだった母を病気で失った後、20歳で絵画コンテストで入賞したころのぼくの目には、見えていたようなぼんやりした記憶がある。
 でも、それは、社会が豊かになっていくにつれて、空気や水のように当たり前のような存在になっていき、それゆえに見えなくなってしまったのではないだろうか?
 今の時代、資本主義社会というのが当たり前のような存在となり、それゆえに見えなくなってしまっているように。
 だが、その痕跡として、その生物がまく種は、芽をだして、すべての「社会人」に「タンポポの木」として確かに根付いているのではないか? 

        * 

 これらのBBの話を聞いて、学者犬は、「おまえのまわりに何かいる」とか「お前は犬らしくない」と言いながら、学者犬をなでるかわりに、「あっちにいけ」というような、学者犬からなにかを「はらおう」という仕草を、なぜBBが毎日のようにしたのか?という理由がわかった気がした。
 学者犬は、自分がBBに邪見にされている、愛されていない、と感じていた。だが、学者犬は、もともと、BBが描いたもの、BB自身なのだ。
 自分を愛せなかったBB自身が学者犬を邪見にすること、あるいはBB自身である学者犬がBBを嫌うことがあるのは、めずらしいことではないのだ。
 そして、BBが、学者犬のまわりにみたものは、すなわち、BB自身が身にまとっていたものだ。
 BBの描いた学者犬の絵が、鏡のようになって、BBのまわりにとりついていたものを映し出し、それがBBの目に見えていたのだ。

                     了                                      

 (補)このお話にでてくる、ソフトウエア「フラッシュ」は、(脆弱性問題が指摘されるなどの理由で)ついに2020年末をもってサポートが終了し、実質上、現在インターネット上でつかえなくなっています。


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