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アベマリア 第8章 病理解剖と司法解剖

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第8章 病理解剖と司法解剖
 
    1
 
 次の日、私たちは、オープンカーで、ブリスベンを出てゴールドコーストにむかった。
 ゴールドコーストまでは少し距離があって、ちょっとしたドライブだったが、昨日の夜の私とアイちゃんの話の影響か、4人とも言葉少な目だった。
 私は運転するダイゴの横の助手席で、ダイゴに話しかけたり、カーラジオをかまったりしていた。なぜ、走る車にトヨタが少なくてヒュンダイが多いのだろう?とか、ゴールドコーストはマラソン大会で有名だけどこの年になって走って膝をこわすのはごめんだ、とか、今日の夕ご飯は、買い出しはせず、海沿いのレストランで、OGビーフと海産物だ、とか、たわいのない話をダイゴにしゃべった。
 後ろの座席でも、アイちゃんとサチさんは、いい感じに静かにおしゃべりをしていた。
 女2人で、寝る前、いったいどんな話をしていたのだろう。
 
 私の希望どおり、4人がゴールドコーストの海沿いのストリートにあるレストランで食事をしたあと、海の音を聞きながらコーヒーやウオッカを飲んでいるとき、ダイゴは、神野一樹が孫の尚樹に口述筆記させたという「回想録」をまとめたものだという、コピーされた小冊子をもちだしてきた。
 旅先で、こんなやりとりがはじまることを想定して、あらかじめ、日本からもってきたらしい。あいかわらず用意周到、だ。
 ダイゴは、私とアイちゃん、サチさんの3人にむかって、話をはじめた。
「実は、この神野一樹が孫の尚樹に口述筆記させた、「回想録」をまとめたファイルは、神野一樹の部屋にあるパソコンからは消えていたそうです。警察は、その部屋の実況見分で、『盗難された物はない』としていたのですが、もし尚樹君のいうことが正しければ、このファイルが唯一、そこの部屋から盗難されていた、ともいえます。
 そして今、見ているファイルは、尚樹君の手元にあった、バックアップのコピーです。
 回収した神野一樹の部屋のパソコンのキーボード上からも、他の部屋の物品の表面からと同様、1年前に死亡した神野次郎の指紋が検出されました。
 そうです。
 今回の事件の最大の謎。
 なぜ、神野一樹が亡くなった部屋から、『1年前に死んだ神野次郎の指紋が検出されたか?』
  この謎の解答について尚樹君からの「回想録」が手元に届き、それに目をとおしてすぐに、ぼくはひとつの可能性、仮説を立てていました。
 謎を説明するのに十分な事実は書かれてないにせよ、この「回想録」には様々な興味深いことが書かれていました。
 もちろん、人間の人生では、回想録とか履歴書に書かれないことのほうが圧倒的に多い。それでも、少なくとも二つの点で、神野一樹の回想録は、ぼくにとって、興味深いものでした。
 一つめ。
 それは、ぼくが、神野一樹氏と同じ、医者だからこそわかることで、みなさんには伝わりにくいことかもしれない。それに、ぼくは、神野一樹氏が教えていた大学の医学部を卒業しているしね。
 神野一樹は、九州で生まれ育ち、大学進学とともに、上京。
 医学部では、テニスの部活に精をだしながら、勉学も怠らず、医学部国家試験に合格。
 彼は、最初、外科を志すも、結局、病理医としてのキャリアを選びました。病理医は、生きている人間の検体の解析、特に顕微鏡検査を中心にしたものを受け持ちます。さらには、病理解剖や司法解剖、など、死体の観察もその仕事の主要なものです。
 「回想録」の中に、神野一樹氏が、助教授時代、悪性リンパ腫で死亡した恩師である教授の病理解剖をおこなったという個所の記述がありました。
「私(神野一樹)は、病理学教室の助教授のとき、当時の生化学教室教授の『公開病理解剖』をおこなった。それは、葬式後でなく葬式前におこなわれた。彼が、闘病生活を送っていたときの主治医たちが、彼の治療でおこなってきた『リンパ球養子免疫療法』の効果の程度を彼の遺体で確かめたいと言いだした。結局、家族の了承のもと、彼の遺体は1年後に学生の解剖実習のためにとっておかずに、通夜・葬式前に『病理解剖』を行うことになった。それで、本人の意思もくむこともできる、と。それで、急遽、学生たちを集めた『公開病理解剖』を、私は行った」
 『公開病理解剖』。
 それは、多くの学生や医師が、大学のひとつの階段教室に集まって、みんなでその病理解剖を見学することです。
 みんな集まって、つい最近まで授業で教えてくれていた先生の解剖の様子をみるなんて。
 医者たちの考えることにはついていけない。
 みなさんは、そう考えるかもしれない。あるいは、その時の医学生の中には、そう考えた者もいたことでしょう。
 だが、何を隠そう。ぼくも、その時、その場にいた一人でした。そして、それは、今も、記憶に残るできごとでした。
 でも、ぼくは、神野一樹氏がその舞台に立とうと決断したのにはいくつかの理由があると思っています。
 まず、ひとつ。
 病理解剖をおこなった、病理学教室の准教授だった神野一樹にとっては、一世一代の晴れ舞台だったんじゃあないか?
 病理解剖を、そんなに多くの人の前でおこなうということはまずない。たいてい、最小人数で、ひとめにつかないところで行われる地味な仕事だから。
 そして、ふたつめの理由。
 なによりも、普通の感覚なら『嫌だな』という話がでたとき、それを躊躇なく『私がやります』と引き受けること。 それこそが、病理医としてのプロ意識であり、覚悟が試された時だったのではないかと。
 そして、もうひとつ理由があったのではないか?
 そう、ぼくはそのとき考えました。
 これは、すこし、今回の殺人事件とは直接関係のない話になりますが、神野一樹と私の関係、あるいは神野一樹の性格を知る上で役にたつでしょうから、少し昔の話をさせてください。
 
 そして、ダイゴが語った次のような昔話は、私もよく知っていることだった。
 それは、昔、私とダイゴで推理した事件のひとつだったのだから。
 
    2
 
 N大学の病理学教室の研究室内で、病理学教授の死体が発見されたから来てくれないか、という連絡が警察から私の方へ入った。
 大学の研究室だから、どんなに立派できれいかと思っていたが、死体が倒れていた部屋は、ごみごみした本や雑誌やレポートにほとんど占領され、埃くさいところだった。
「これでも、コンピューターのデータベース機能のおかげで、ずいぶん研究室はすっきりしたほうなんだよ」
 私がその声に振り返ると、そこにはダイゴ医師の姿があった。
「ダイゴ、どうしたんだい。こんなところにいるなんて」
「ほとんどの人は、コンピューターの能力はデータベース機能だと思っているけれど、本当は計算機能という重要な能力も持っているのだけどね。最近では一般に忘れられがちだけど」
「ぼくの返事には答えてないよ」
「そうか。N大学は、今日の一日で、2人の優秀な教授をあいついで失ったことになる。ひとりは、生化学教室の教授。そして、次に、病理学教室の教授だ。そして、二人とも、ぼくにとっても学生時代に講義をうけた恩師でもある」
「それは、なにか犯罪の匂いがする。大病院のVIPが次々と謎の死をとげ、その背景には権力闘争が・・・」
「それはテレビや小説の見すぎじゃあないかな、クニイチ君。二人とも、あきらかな病死だよ。それは、死後行われた病理解剖で確かめられたことだ。特に、生化学教室の教授の方は、何年も前から悪性リンパ腫で闘病生活をしていたことはぼくも知っていたんだけど、ついにかなわず、今日亡くなったんだ。直接死因は、悪性リンパ腫の悪化ではなく、心筋梗塞だったみたいだ。まあ、病状もかなり悪くなっていたらしいが。
 いずれにせよ、ぼくは通夜にはでるつもりだったんだけど。
 実は、彼は生前『献体』の会に登録していたらしいんで、少し通常と違ってややこしくなった」
「『献体』の会?」
「N大学を中心としたこの地方に『白百合の会』っていうのがあるんだ。自分の死体を、医学生のための臨床解剖実習に使ってください、と生前に意思表明した人がそこに登録するんだ?」
「じゃあ、通夜や葬式は遺体なしなのかい?」
「いや。葬式までは普通どおりだ。葬式場から、火葬場にいくかわりに、遺体が大学に移動し、そこで『ホルマリンにつけれられる』んだ」
「じゃあ、火葬は?」
「その遺体の解剖実習がおわったあとだ。だいたい、死後1、2年立ってから解剖実習で、その後火葬場にいくんだ。その間、骨壷には骨ではなく、髪の毛とか爪をいれておいたりしておくらしい」。
「じゃあ、そのダイゴは、恩師の遺体が葬式のあとに、火葬場ではなく、ここに運ばれてきたのについてきた?」
「いや、実は今回、結局、彼の解剖は葬式後でなく葬式前におこなわれたんだ。彼が、闘病生活を送っていたときの主治医たちが、彼の治療でおこなってきた『リンパ球養子免疫療法』の効果の程度を彼の遺体で確かめたいといいだしてね。それに対して、『彼は、もともと、白百合の会、に登録していた』ということで、家族は了承した。
 ただし、彼の遺体は1年後の学生の解剖実習のためにとっておくのではなく、通夜・葬式前に『病理解剖』を行うことになった。それが、本人の意思もくむ方法でもあろう、ということで、急遽、学生たちを集めた『公開病理解剖』を行うというめずらしい形になった。そして、先ほど、それにぼくも参加したんだ」
「公開病理解剖に?」
「うん。ぼくも初めての経験だったんだけどね。多くの学生や医師が、大学のひとつの階段教室に集まって、みんなでその生化学教室の教授の病理解剖を見学したんだ」
「みんな集まって、つい最近まで授業で教えてくれていた先生の解剖の様子をみるなんて・・・やっぱり、医者たちの考えることにはついていけないな」
「ぼくだって、楽しいとはおもわなかったさ。でも、病理解剖をおこなった、病理学教室の神野准教授にとっては、一世一代の晴れ舞台だったんじゃあないかな?病理解剖を、そんなに多くの人の前でおこなうということはまずないからな。たいてい、最小人数で、ひとめにつかないところで行われる地味な仕事だから」
「そうそう。その神野准教授。警察は彼の到着を待っているんだ。彼に、今日、亡くなった病理学教授の死因を調べてもらう、司法解剖をたのんであるんだ。そうか、つい先ほど、そんな大きなできごとがあった関係で彼の到着が遅れているのかもな」
「司法解剖って・・・今日なくなった病理学教授の死因は、病死でなく殺人という線が強いのかい?」
「まあ、ひとり、突然自分の部屋に倒れていたからね。病死でもいいんだが、偉い先生だしやっぱりきちんと死因を確かめておかないと」
「准教授が、ずっと鼻をつきあわせて仕事をしてきた、自分の上司の教授が急死したので、その解剖を、するなんて。さすがのぼくでも、それはちょっといやだな」
「医者でもそんな風に思うのかい?ぼくらもどうかと思ったんだけど・・・話をしたところ『私がやります』とすぐ答えたらしいよ」
 
    3
 
 警察へ働きかけて、その病理学教授の「司法解剖」を、私もダイゴも見学させてもらうことにした。
「死体解剖の手順というのは、手術とは違う、特別なものがあって、目的にあわせた合理的な手順になっている。それゆえ、同じ臓器なのに、違った風にみえ、外科医にとっても新鮮なんだ。あと、もうひとつ、移植の死体からのドナー手術というのが、この解剖とも、一般手術とも異なる手順で、やはり外科医にとっても新鮮なんだ」
 開業医をしているものの、さすがに元外科医だけあって、ダイゴは解剖のひとつひとつに興味をもってみていたが、私にはとても正視できないようなグロテスクな作業だった。
 気分が悪くならないように、解剖の間中、死体の方ではなく、手元に持った警察から手に入れた病理学教授に関する簡単なレポートの方に目をおとしていた。
「解剖を行っている准教授と、なくなった教授は、仲違いというまでもいかなかったにせよ、仲がいいとはいえなかったようだ。教授の方は、昔ながらの病理医で、解剖しその組織を顕微鏡で見て診断をする地味なタイプ。一方、准教授のほうは、分子生物学的なアプローチを得意とし、最近では遺体にCTスキャンをする運動を精力的におこなって、マスコミにも名前がでている」
「時代の流れだな。でも臨床の現場では、分子生物学的手法は、いまだに古典的方法をほとんど越えていないんだよ。論文はいっぱい出ているけどね。・・・今回、CTスキャンは?」
「おこなったみたいだよ。外傷は認められないらしい」
 どちらかというと、スポーツマンタイプのがっしりした体の神野准教授の手によって、ついさっきまでは上司だった、小さい学者肌の同じ教室の教授の体の解剖が進められていった。
「冠動脈の前下行枝の根部が血栓でつまり、心臓のそのかん流域全体に色調の変化、すなわち心筋の壊死がみとめられます」
 彼は、心臓にメスをいれて、その割面を病理標本にするよう、すぐそばの助手に指示した。
 
 解剖を終えると、最後に准教授は解剖の結果をまとめた。
「心臓以外の異常は認めません。死因は、急性心筋梗塞によるものと、ほぼ断定できると思います」
 
    4
 
「タクシー運転手が車のブレーキとアクセルを間違えて踏むとか、行き先を客にいわれたけどわからずにナビに入力するなんてことは、日常ではありえないことではない。けれど、小説の中のタクシー運転手は、たいてい普通のタクシー運転手で、率なくその仕事をこなすだけだよね。ぼくはそこが少し物足りないんだ」
 ダイゴは、解剖の部屋からでて私と二人きりになると、いきなりそう私に言ってきた。
 私が黙っていると、さらに言った。
「殺人をおかして現場の外に逃げ出すというのは、あまり賢い方法とはいえないだろう?現場にとどまって、たとえば警官になりすまして、一緒に犯人逮捕の協力をするほうがずっと賢いに決まっている」
 私はダイゴが、何を考えているか、はかりかねた。
 この病理学教授の死は自然死ではなく殺人とでもいいたいのだろうか?
 死因が心筋梗塞と言った、准教授を疑っているのだろうか?
 しかし、衆人環視でおこなった、あの司法解剖の現場で、なにかをごまかすということは不可能なことだ。
「クニイチ君は、先に帰ってくれたまえ。ぼくは、もう少しやることがある。そういえば、この大学から君の事務所はそんなに遠くないよね。いつも、君がぼくのクリニックにくるけど、今日は逆にしよう。ぼくが君の事務所にいくよ。事務所に先に言って、おいしいコーヒーでもいれて待っていてくれ。コーヒーを飲んだら、いっしょに食事にいこう」
 ダイゴは、思いのほか上機嫌だった。
 私は、悪乗りした彼が、コーヒーを飲み終わってから、食事は焼肉を食べに行こうなんて言いださないかと、そのとき危惧した。
 
    5
 
 そして、案の定、夕食は焼肉だった。
「だって、君たち、外科医にこう言うのがひとつのパターンだろう?人の臓物をみたあとで、よく肉が食えますね?って。クニイチも経験してみたら?」
 焼ける肉の音を聞きながら、ビールばかり飲んで手をつけようとしない私に、ダイゴは、彼のこの「殺人事件」についての推理を語った。
 
 昨日、今日、と。たてつづけに行われた、二つの解剖の二つともに立ちあった数少ない人に、あの准教授とぼくの二人は含まれている。
 ぼくが、クニイチのような解剖をまともに正視できないような人間だったら、准教授のトリックは完璧だったろう。
 しかし、その多くはない、二つとも解剖をみた者の一人が、医学的知識と経験をもつぼくだったということが彼の不運だった。
 もちろん、ぼくは、元外科医というだけで、今は地域の風邪ひきや腰痛もちのお年寄りをみている開業医にすぎず、解剖や病理の専門ではない。
 でも、「昨日と今日行われた二つの解剖の死因が、まったく同じものだった」ということに多少なりとも違和感をもつのは自然だろう?
 冠動脈の前下行枝の狭窄による心筋梗塞。
 昨日の生化学教室の教授の死因も、今日の病理学教室の死因も同じものだった。
 確かに心筋梗塞というのは、死亡原因でポピュラーなものだし、それが命に影響を与えるような状態というのは、冠動脈の前下行枝の狭窄というのは少しもおかしなところはない。
 偶然、ふたつ重なっても、まあありうることかな、とも思う。
 一つ目の解剖では、死因は問題ではなかった。
 悪性リンパ腫にたいする新しい治療方法の効果がどのくらいのものであったかを調べるということが目的の中心で、そのために解剖の多くの時間が費やされた。
 つまり、直接死因である心臓についてはあまり関心がはらわれなかったんだ。
 その証拠に、執刀者である准教授は、とりだした心臓にメスをいれて病理標本作成することは命じなかった。
 他の臓器。リンパ腫やその治療と関連する様々な臓器につては大量の標本がつくられたが、心臓については、外側からの観察で、冠動脈の前下行枝の血栓による血流障害で心筋に壊死が認められる、と触れられただけだった。そしてそこに出席している誰もが、それを確認し、その説明に納得した。
 一方、二つ目の解剖。
 この場合、心臓については標本が作成され、興味や注意がはらわれた。しかし、他の臓器にはほとんど関心がはらわれなかった。
 外傷が体にないことはわかった。しかし、もし、心臓にも問題がなければ、死の痕跡を表面的に残さない、薬物による中毒死の可能性を考え、死体の血液や臓器を採取し薬物解析にまわしていたはずだ。
 しかし、今回、死因は心臓で明らかということで、そのような薬物解析についての標本採取がおこなわれなかったのだ。
 
 見ていたか、見ていなかったかはともかく、解剖台の上は解剖がすすむにつれいろいろな臓器で乱雑になっていく。
 いくつかの目があるにしても、第二の解剖で、それらの目をかいくぐって、第一の解剖で採取した心臓をそこにまぎれこませるということはまったく不可能ではないとぼくは思ったのだ。
 第一の解剖のあと、遺体からとりだされた臓器は、まとめてゴミ袋にいれてただ捨てられるだけだ。遺体には、かわりに紙をつめこんで、表面をぬいあわせておけば、通夜・葬式・さらに火葬でなんの問題もおきない。
 あの准教授が、第一の解剖のあと、ゴミ袋から、切開さえいれてない丸ごとの心臓を、ポケットにいれるとか、あるいは第二の解剖台の流し部分に密かに隠しておいて、きりとった第二の解剖の心臓にかわりに、その第一の解剖からとってきた心臓をみなにみせ、切開し、病理標本をつくってみせる。
 理屈として、それは充分可能なことだとぼくは思った。
 二つの解剖が同じ死因だったというほかに、もうひとつぼくが違和感をもったのは、第二の解剖の遺体の記録の既往歴のところに「心臓弁置換術」というのがあったのに、解剖の途中、そのことについてまったく触れられなかったことだった。
 ほとんど痕跡が消えていたにしろ、通常、そのような既往歴があるときはそれについて注意を払って解剖が行われるのがしかるべきなのに、そのような気配がみられなかったのだ。
 
 ダイゴの推理を聞いているうちに、ぼくはいつの間にかに目の前の焼肉に手をのばしていた。
「ほら、食べても、平気だろう?」
「それでも、昼間の光景は頭にやきついているよ」
「慣れもあるかもしれないけど、一番大きいのは、たぶん、具体と抽象の違いだ」
「具体と抽象?」
「そう。抽象画の説明で読んだことがあるんだ。同じものを、遠くから全体としてながめれば、具体。それにずっと近寄って、一部だけを拡大してみたら抽象。つまり、遺体は具体、でも焼肉は抽象というわけだ」
「理屈ではそうだが」
「その証拠に、クニイチは、もう平気で食べているじゃあないか。
具体と抽象の違いとは・・・。
同じものを見ているようだけど、実は見ているものは全然違うものと考えていいんだとぼくは思うよ」 
  


第9章 へのリンク: https://note.com/kojikoji3744/n/n7d6d5e5f826a

第1章 へのリンク: アベマリア 第1章 同業者の匂い|kojikoji (note.com)

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